春の盛り

nankai2011-04-20

桜もあらかた散り,葉の芽がふいて葉桜である.それぞれの植物が新しい葉を広げ,日の光を受けとめる時節となった.この一ヶ月,春期講習から新学期と授業準備と問題作成におわれていたが,作成問題はようやく昨日送った.一段落である.写真は公園の藤の花.いつの間にか藤の季節なのだ.
かつて阪神大震災のあと,故小田実は自らの被災経験とその後の被災者への社会の対応のあり方の見聞を通して「日本は人間の住む国なのか」問いかけた.手元に2002年の彼の小説「深い音」があるが,今読みかえしてもその声が伝わる.彼はそこから「人間の国をめざす歩みを続けよう」と再び歩き出したのだった.彼の神戸新聞での発言がここにある.「市民」として 震災13年 小田実が遺したもの.小田のこの言葉は日本国政府には届いていなかったと言わねばならない.このままではまた被災した人々が国に捨てられる.許してはならない.地震は自然災害そのものであった.しかしそれが起こったとき国家や社会がどのような思想でこれに係わるのかは,人間の問題である.
一方,原発事故は人災そのものである.一段落といえるまでのそこに向けた行程表が一昨日発表されたが,福島現地の事実をどれだけふまえたものか疑問が多く,東電本社で希望的観測にもとづいて作成された机上の空論である可能性が高い.そのなかで,現地で働く人々の努力には何とも言葉がない.
日本の官僚的無責任体制が東電,通産省,政府を覆っていた.かつて,負けるはずがないと宣伝されそれを信じてあの戦争を引き起こし,敗れた.原発事故は起こるはずがないとされながら,結果この惨事である.二度とも近代日本の官僚制の無責任が引き起こしたのだ.
あの戦争の後には,アメリカが日本を占領,戦前の体制をそのまま残した.原爆という大量破壊兵器を二回も落とされながら,「原子力の平和利用」などの美辞をアメリカから吹き込まれ,それを信じて原発を推進してきたのも,この温存された日本の支配体制と官僚制であった.考えてみれば,近代日本は本当にものすごい経験をしてきたのだ.
経験は総括され教訓を引き出し次代に伝えられねばならない.そうしなければ犠牲者は浮かばれない.戦争と大震災の教訓は,旧体制を打破せよ,ということだ.これが歴史がわれわれに求めていることである.
さて,こちらはもういちど射影幾何に立ちかえろう.係数体までできているので,射影座標を導入し,そのうえで複比を定義する.そして二次曲線に進む.夏の終わり頃までかかるだろう.そのうえで,パスカルの思想についてその現代的な意義をまとめたい.ここめではやらねばならない.
去年の夏に「ある難問(二)」で書いたことについて,先日Sさんから,彼の考察やいろいろ論文を紹介するメールをいただいた.ようやく昨日もういちど読みかえした.covering system といわれる多くの未解決問題のある分野だと言うこともわかった.自然数を等差数列で覆うということである.共通部分のない等差数列に分割する場合は,disjoint covering system という.これに関してSさんが紹介してくれた論文は初等的である.合間を見て少しずつ読んでみて,再構成できれば紹介したい.いつまで頭が働くのかわからない.系統的にやらなければと思いつつ,自分の問題意識の系統がまだ十分には見えていない,という段階である.