石川一雄さん

昨日,石川一雄さんが講演されるということで,大阪東淀川の協同会館アソシエであった反弾圧ネットワーク実行委員会主催の「強まる弾圧に抗して」という集会に行ってきた.石川さんが再審を求めている狭山事件部落解放同盟ページはここにある.冤罪狭山事件は石川さんとその家族自身のページである.12月9日の写真もある.また曹洞宗の雲祥寺によるこのサイトも参考になる.主催者のパンフレットを引用する.

今から48年前(1963年)、埼玉県狭山市で女子高校生の誘拐殺害事件がおこりました。このときに警察は、身代金を取りに来た犯人を取り逃がすという失態をおかしました。この事件の直前、東京の幼児誘拐事件でも同じ失態をおかしていた警察は、世論の非難をかわすために、事件の早期解決の名の下に、被差別部落に対する予断と偏見をもった見込み捜査を行い、石川一雄さんを逮捕しました。何の証拠もなく、別件で石川さんを逮捕した警察は、拷問と脅迫によって、石川さんにウソの「自白」をさせたのです。裁判所は警察のでっち上げを隠蔽するために石川さんを「無期懲役」にしました。しかし、不屈にたたかう石川さんは再審を求め、現在第三次の再審請求をたたかっています。

この事件は,警察の失態を隠すために部落の青年を無関係と知りながら逮捕し,32年間獄につないだ,国家の犯罪そのものである.2009年になってようやく検察側は,脅迫文と明白に異なる石川さんの筆跡資料や,殺害現場とされるところに隣接する畑で農作業をしていたOさんの供述調書等を開示した.国家はこのような証拠を40数年間にわたって隠し続けてきたのである.近年,足利事件布川事件など長期にわたる再審請求と再審の末,国家の側が無実を認めざるを得なくなるということが続いた.狭山事件もまた,再審が開始されれば無実が明らかになる.しかし,まだ前途は予断を許さないし,またたとえ再審を経て無罪が確定しても,それで終わりということではなく,国家の犯した罪を問いなおさなければならない.それは思想信条,政治的立場などの違いをこえた,人間としての問題である.人の世のに光あれ!
私は1973年の秋に教員に採用されたのだが,そのすぐ後の11月27日,東京・日比谷野外音楽堂で行われた狭山差別裁判糾弾集会に部落解放研究会の生徒らとともに参加した.狭山裁判はその一年前,当時の東京高裁井波裁判長が定年退官するに当たって早期結審と死刑判決を目論んでいたのに対して,部落解放同盟や学生の実力闘争でそれをうち破ってきたのである.この集会は新裁判長のもとで公判が再開されるのを機に呼びかけられたものであり,主催者の予想を大きく上回る参加者があった.無実は明白であるにもかかわらずひとりの部落の人間に死刑判決を出そうとする国家の非道に対して,闘うものの生命の奥からの連帯感一体感が会場をみたしていた.私はたいへん感動した.教師の仕事がそこからはじまったように思う.
石川青年とりもどそう」が当時の運動のスローガンであったが,その石川さんも73歳.長い年月が経ったのだ.石川さんは1994年に仮出所された.それから昨日まで,私は石川さんの声を聞く機会がなかった.はじめてお会いした石川さんは元気だった.声も若々しく,自分は40台だと思っているといわれていた.そして自分の再審と無実の証明を勝ち取るだけではなく,この日報告されていたような多くの権力犯罪に対して,一緒に闘っていきたいと決意を語られていた.こちらも大いに元気をもらった次第であった.
追伸(12/15):石川さん等が要求していた証拠開示で,検察側は高裁の促しに応じ狭山事件の証拠14点開示を開示した.これは再審開始にむけた一歩の前進である.