核力と核惨事

原子力発電所」というが「原子力」という「力」はないし,概念もない.あるのは「核力」である.「原子力発電所」,「原子力の平和利用」は「核力発電所」,「核力の平和利用」などと言わねばならない.それに対して「核兵器」「核爆発」はまさに定義通りの意味である.それはどういうことか.原子は核とその周りにある電子からなる.核内の核子強い相互作用といわれる力によって結合されている.この力は物理学では核力と言われる.相対性理論で定まる質量欠損に対応する力として核力を取り出す.核分裂核融合であるが,その制御は極めて困難である.それに対し,原子と原子を結合させ分子を構成し,分子を結合させ一定の物質を構成する.その結合力は,イオン間の相互作用としてのイオン結合や分子間力と言われる力で結びついている.この力がものが燃えるときの熱をはじめとして,日常の様々の力はこの結合力を取り出すものである.
なぜ戦後の日本では,「核力」と言わず,「原子力」という物理概念にない言葉を作ったのか.それは歴代自民党政府が,政権の本音を国民から隠す,あるいは抵抗を少なくするためであったのではないか.原発が経済的に成りたたないことは彼らもよく知っている.しかし原発を国策として推進してきた.それはなぜか.いずれ核武装する,それが戦後日本の支配層の本音であった.いつでも核兵器が持てるようにするために,原発はその準備であった.最近、自民党の石破政調会長が、「いつでも核武装できることが抑止力になっているので、原発を止めるべきではない」と発言している(ブログ「脱原発の道」より).これもごまかしで,本音は核武装そのものなのだ.もっとも彼らの核武装は,アメリカという虎の威を借る狐の飾りに過ぎない.それでも自民党政権は一貫して核武装の本音を持ち,それを隠してきた.
広島,長崎の惨禍を経験した国民にそれは受け入れられない.あれはまさに史上最悪の大量破壊兵器であり,それを用いたのがアメリカだった.その惨禍をもたらしたものと同じ核力であることをあからさまに言うのは抵抗が大きい.それで「原子力」という単語を作りだしたのだ.「原子力の平和利用」といえば聞こえはよい.「核力の平和利用」といえば核兵器とものが同じであることがただちにわかる.それをごまかすために戦後,原発施策を進めてきた歴代自民党政権はこの言葉を用いてきたのだ.
ならばわれわれは「核」を使おう.それで私は今回の原発事故を一貫して「東電核惨事」と言ってきた.核力が制御できなくなり,放射性物質が環境系に放出され,短期長期にわたり甚大な被害をもたらすことを核惨事という.東電核惨事はチェルノブイリをはるかに凌ぐ,人類史上初めて経験する大惨事である.その惨事の諸相はこれからこそいよいよ明らかになる.先日書いたことを反芻して,震災とその後の苦しみについて考える.震災による苦しみにはいくつかの層があるのだ.
地震津波による苦悩 まったく大きい地震だった.津波もまた貞観地震以来の大津波だった.多くの人が逝ってしまった.その悲しみの大きさの前には,ただ頭をさげるのみである.しかしにもかかわらず,残されたものは,逝った人の思いを受けとめ,弔い,そして立ちあがり再び歩みはじめる.それが,逝った人への供養であり,元気に再び歩みはじめたことこそ,逝ったものが望んでいたことだと,自分に言い聞かせ歩みはじめる.
東電核惨事による苦悩 日本人はアメリカの原爆を受けた身だ.人類史上最悪の大量破壊兵器・原爆.核力の凄まじさを教訓として知っているなら,原発開発はありえなかった.しかし実際には作った.売国奴中曽根元総理や読売新聞の正力といった連中が,アメリカに魂を売り原発を国策にした.そして核惨事である.核汚染は福島県全体,列島全体に広がった.すべての情報を公にし,当初の年間1ミリシーベルトに立ちかえり,それを越える地域での避難,疎開を国家として進める以外にない.カネの問題ではない.かつて集団疎開を行ったのだ.それしかない.
政治の腐敗による苦悩 しかし核惨事の本当の苦しみは政治の腐敗,貧困,無能によってもたらされる苦悩である.「きぎ工房絵日記2」さんが伝える福島県のある医者の言葉を読んでほしい.これが日本の現実である.このような福島の現状は国の政治によってもたらされたものだ.この政治の貧困,腐敗,堕落から来る人々の苦悩,それがいちばん大きい,事故を起こした東電の責任が許されることなく追求され,それを認めてきた歴代自民党の責任が追及され,その一方で国を挙げて福島大疎開が敢行されなければならなかった.政治がやっていることは逆に福島を見捨て,子供の未来を奪うことばかりである.
若い皆さんが私の見解にとらわれず,自分で資料も集め,考え,そして行動することを願っている.
追伸:午後にここまで書いて,それから授業を終わり,添削も片付け,いつもの京都駅前の店で夕食.そうすると夕刊は金正日死亡のニュース.人間の生には限りがある.いずれは死ぬ.しかしこの時点で死ぬのはあまりにうまくできている.歴史の必然と偶然のいたずら.これによって来年はさらに面白い1年となることはまちがいない.歴史が面白いのはしかし,われわれ庶民にとっては災難であることが多い.従軍慰安婦の問題も米軍辺野古移設の問題も,すべて戦後自民党政治を総括するという問題だ.来年はそれが正面から問われる時代となる.朝鮮半島北部とは第二次世界大戦の処理も済んでいない.この60年,日本と北はまだ戦争状態にある.我々の側からする戦後政治の総決算,それが歴史の求める課題である.