年越し

今日は大晦日,年越しの日である.昨日は,昨年に続いて芦屋駅前に行き,教え子のS君が家族総出でしめ縄などを売っているところでそのしめ縄を買った.S君はこの前のクラス会のクラスなのだが,日頃は阪急バスの運転手,土日はいつも仕事でクラス会にはいけなかったとのこと.彼とは年に一度ここで会う.昔教えた人がこうして地域に根づいて暮らしているのに出会うのは嬉しいものである.
さて核惨事が現実のものになった2011年が終わる.3.11の地震と引き続いた核惨事は,否応なく新しい時代の画期となった.明治中期に成立し,今日につながる官僚支配体制の無責任さ,空虚さが,この核惨事のなかで白日のものになった.その意味は何か,また3.11後の時代をどのように生きるのか,すべてこれは開かれた問題である.年末,この日本の官僚制が沖縄をどのように見てきたのか,それが言葉と行動の両方で明らかとなった.言葉とは,先の沖縄防衛局長を更迭 「辺野古」評価書 不適切発言である.行動とは27日未明の辺野古アセス評価書の搬入,引き返し,未明の一部投げ込み,という一連の動きである.これについては辺野古浜通信海鳴りの島からに詳しい.
2011年はまた,アラブの春にはじまるうねりが,スペインやギリシアに広がり,そしてアメリカにまで行きついた.アメリカの運動はいったんは警察力によっておさえられたが,どのみち一進一退である.大切なことは,あのように公共の広場を占拠し自由に討議し,原理原則から考え行動する.そういう場に身をおくことである.解放された空間の経験は体が覚えている.10年ほど前にはアルゼンチンのブエノスアイレスの街で同じような蜂起があった.それまで南米は新自由主義のひどい搾取と収奪のもとにあったが,あのときついに民衆の蜂起に至った.そしてその経験は今年の中南米カリブ共同体の発足につながっている.
日本の動きと世界の動きは一体である.歴史は紆余曲折を経るが,しかしやはり進むべき方向に進む.弱肉強食の拝金主義である新自由主義経済に対し,世界的な規模で反乱が広がった2011年であった.経済は人間にとって手段であって目的ではない.核惨事のなかで,幾人かの大学人が「人間として」黙っていられないということで声をあげられた.そうなのだ.人間の原理にもとづいて,人間として考え行動する,これがわれわれの立場であり,99%の人間の立場なのだ.来年,このことはより明確になる.
さてこの年末,いろいろ片付けをしながら,時間を見つけて計算している.『ポンスレの定理』で東大や京大名大なのどの過去問を掘りさげ,ある円錐曲線に内接し,円に外接する三角形が存在するための必要十分条件を個別に計算した.しかしこれは一般的にできる.『幾何学大辞典』の六巻に載っている.それは2年ほど前から知っていたのだが,辞典の解説は概略なので,きちっと射影幾何を組み立ててから,証明と計算を考えるつもりであった.問題作成などの仕事が一段落して,ようやく25日頃からやりはじめた.『射影幾何』の中の『ポンスレの定理』の証明の第2番目に来るものだ.なかなか進まないのだが,少なくとも高校数学を教える人が,どうなんだろうと考えたときに役立つようにしたいと考え,いろいろやっている.
ようやくここまで来たとも言えるが,1997年頃,この業界で仕事をしはじめて2,3年の頃,『ポンスレの定理』の計算をしていた.あのときはそれが精一杯であったが,しかしあのときもっと深く考え,この一般定理まで行きつくべきだった.この内容はここには書けないので,いずれ整理して載せるが,塾で教えはじめた頃にやっていたことのケリがようやくつきそうなところに来ている.大晦日に必要条件まで確認した.1月半ばには経過も含めて報告できるだろう.個人的にはポンスレの定理を秋の初めからやってきてここまできて,達成感もあるが,同時にやはりもっと集中し根をつめて深く考えることができなければとも思う.
こうして今年も終わってゆく.みなさんよい年をおむかえ下さい.受験生のみなさん,しっかり冬籠もりをして,春に芽を出し花を咲かそう.