冬期講習終わる

今日で冬期講習が終わった.京都からの帰りの電車で書いている.大阪の3年生も京都の2年生もそれぞれよく勉強した.考えるうえでの発想,考えるときのリズム,こういうものが講師のそれと共鳴すると,授業が進む.私も年をとって昔よりも頭の回転は遅くなった.それで生徒の考える調子に近くなり,最近の方が生徒諸君はかえってよくわかるようだ.一から一緒に考えているので,生徒が自分が考えていることと授業が共鳴する.
こういう授業は学校現場でどれくらい行われているのだろう.授業論をまとめようかと思ったこともあったのだが,授業というのは職人仕事で,言葉で書き難い.また読んでわかるものでもない.学校や塾はこういう職人仕事を大事にしなければならないのだが,そこがわかっていない人が多い.授業の経験のない人がテキストや講座の管理をしてうまくゆくわけがないのだが,一般にそれがわかっていない.
昔,高校教員の頃は,授業研究や実践交流会,教材研究などよくやり,先輩教員の授業を見させてもらったものだ.が,塾・予備校業界では授業研究も教材研究も皆ですることはない.私の授業方法はこのまま埋もれさせるつもりだ.生徒の思い出の中に残ればよい.私も高校のときの山崎先生や岡田先生,笹崎先生の授業は今でも覚えている.影響も受けた.これまで教えた人のうち幾人かは数学教師になりそうだし,他の教科で教師になる人もいそうだ.彼らが教壇に立ったとき思い出してくれれば役立つだろう.職人的な授業技術はこのように人から人へ受け継がれてゆく.それが文化である.
学校現場のかかえる問題は,授業論云々よりもっと厳しい.橋下教育改悪(あれは悪以外の何ものでもない)に対して大阪の先生たちはどのように闘うのだろう.私は,かつて中曽根行革の時代に,これと闘って負けた方だ.だから大阪の先生がこれから直面する困難は人ごとではない.さっそく組合潰しがはじまっている.このとき教師が立ちかえる場所は教室での授業であり,生徒との人間関係であり,生徒の通う地域との関係である.闘いの根拠もまた授業の場にある.私は切実な気持ちで大阪の先生のこれからを見つめている.