宵えびす

 今日は4時過ぎまで大阪で授業があった.そのあと阪神電車で西宮に戻り,西宮えびす神社に参ってきた.今日は宵えびす,明日は十日えびすである.大変な人出で,表大門から境内に入るまでに先ず並び,そこからまた半時間ほどゆっくりすすんでようやく拝殿にたどり着いた.少し近づいたところから賽銭を投げ,拝んできた次第である.例年,三日間で百万人を超える人出がある.これを地元では「えべっさんに参る」という.
 昔,あの近くに住んでいたので,私にとっては地元であるが,十七年前の阪神地震で門前の商店街もあらかたつぶれ,十年ほど前にようやくある程度回復.しかし昔のアーケードはなくなり阪神西宮駅も建て替えられ,駅前商店街の雰囲気は別の街である.そこから少し西に歩いて西宮神社がある.
 明日十日の朝は「開門神事(かいもんしんじ)福男(ふくおとこ)選び」である.このような行事が江戸の昔から続いていることは,何となく落ち着くことである.芦屋西宮の山手は弥生時代からひらけている.西宮の北の丘陵にある広田神社と対になっているように思うが,えびす信仰の起源や由来はよくわからない.いずれにしても商売繁盛の神であり,徹底して現世利益の神社である.
 最近『「神道」の虚像と実像』を読んだ.いくつか教えられることがあり,それも整理したいと思っているのだが,それはともかく,その中にもあったように,日本の宗教は佛教も神祇道・修験道陰陽道も適宜使い分ける「融通無碍な多神教」であった.それは今も変わらない.もっとも西宮神社神仏習合ではないようだ.しかし参拝者がいわゆる神道かと言えばそうでもない.大晦日は寺で除夜の鐘をつき,明ければ神社に参る.そしてそれが別の宗教だということも意識されない.いい加減と言えばいい加減で,しかしまた厳しく対立してきた一神教を笑いとばす強さもある.
 若い子連れの夫婦なども結構多い.彼らにとって宗教とは何なのだろう.えべっさんに参るのはどういうことなのだろう.と考えて,どうもそれは宗教云々ではなく,それが祭だからだと気づいた.私が参ったのも夜店を見ながら沿道の賑わいの中を歩くためだった.仏教も神道も個別の問題で,一般的な問題は縁日と祭なのだ.だから生活における祭の意味が大切なのだ.おそらく,有限の人生を生きる人間にとって有限性をこえるうえで宗教は必要なのだ.しかし,教義や宗派の違いによる対立は不要なのだ.そんな対立をこえたところ,縁日に参拝するという祭のなかに,日本の宗教があるとも言える.ここはもう少しその奥にあることが言葉にならなければならないが,それはまた時間のいることだ.等々いろいろ考えながらバスで戻ってきた.