秋入学?

東大が数年後に秋入学にしようとしている.私はこれに反対である.春入学は農耕文明,とくに水田耕作の長い歴史とその記憶に裏づけられたそれなりの意味がある.まず春先に苗代を作り,種をまき,稲の苗を育てる.それが四,五月である.一方で田をおこし,そして六月の田植え.それから苦労して育て,秋に取り入れる.その出来を喜び,冬に籠もって春に備える.このリズムで勉強もする.この季節感が春入学の意味であった.それに対して,秋を新しい学年のはじめとする感覚は夏のバカンスを区切りとするもので,狩猟民族のものだ.生き物の成長からは半年ずれた人間の都合である.
西洋の学校制度を導入した明治期は秋入学であった.鹿鳴館の時代である.それが一段落した大正時代にすべて春入学になった.国家の会計年度にあわせたとも言われているが,会計年度自体,かつての主要税目だった地租徴収に都合よいというところからきており,農作業のサイクルにあわせたものだった.またこの大正デモクラシーの時代にようやく近代日本はみずからの季節感で入学時期を決めるようになったともいえる.
こうして,入学も入社も,故郷の営みや古い記憶に結びつくこの季節感から離れないようになった.これは大切にしなければならない.故郷で,さあ今年も米作り,となる時節に,彼や彼女も上京して学生になるのだ.また新しく社会に出るのだ.人々の生活は,農耕文明の記憶と結びつくとき,はじめて季節感をもつことができ,落ちついたものとなる.春入学は世界の大勢と違う? それならわれわれ農耕文明の季節感をもっと正面から言えばよいのだ.それをせず,多国籍化した日本企業の都合を第一にする東大,である.秋入学をいちばん歓迎しているのは経団連であり,もともとその辺りから出てきた話である.経団連は今や日本の多国籍企業の団体であり,TPPにも賛成して,日本の農業やそれにもとずく制度よりも,多国籍企業としての都合を優先する.
東電核惨事においては,保安院や安全委員会,はたまたいろいろなでたらめを喋り続けている先生をはじめ,東大系御用学者の犯罪性が白日の下にさらされた.小学生でも回文「ホアンインゼンインアホ」や戯言「マダラメハデタラメ」を言う時代である.秋入学は大学をますます人々の季節感や生活感と乖離したものにし,御用学者を増やすことだろう.
明治以来の日本の学校制度や大学制度はいちどご破算にしなければならないところにまで来ている.受験業界で飯を食いながらこんな事を言うのは矛盾しているのだが,事実そうなのであり,現実世界はどのみち矛盾に満ちているのだ.矛盾の中でせめて出会った生徒には人間としての真実の一端を,という気持ちであり,また,だからこそ既成の制度から自由に,仮想空間に青空学園をつくってやってきたのだが,それはともかく,生活に裏づけられた季節感はもっと大切にしなければならない.