捨てる

nankai2012-01-30

押入に「このまま処分」と書いた段ボール箱が5個ほどある.意味は「死んだらこのまま捨てろ」ということなのだが,家族に,「死んでからではかえって捨てにくい.自分で始末しておいてくれ」といわれた.それはもっともなことなので,2,3日授業がない機会にそれを開けて整理している.
箱のうち二つは,4年前に実家から送ってきたのを少し見て,そのまま置いてあったものだ.そのとき「古いノート」と「42年ぶりの問題」を書いた.中学校の教科書,高校の実力テスト,年賀状,手紙,小学校から大学時代の日記など限りがない.大学受験票と合格通知まである.中学2年の日記など読むと,まあ難しいことを書いている.なかなか捨てがたいが,読みかえそうと思うものを除けて、その他は捨てる.また他の三箱は教員時代やその後の時代のノート等である.ノートだけで60冊はあるだろうか.下書きや会議記録等々.また様々の資料,古い年賀状や友人からの手紙.これも一,二を残してすべて捨てる.
これをどのように捨てるか.公開されている資料や文献は古紙で出せる.本は古本屋に引き取ってもらうか手間だがネットで売りに出す.が,ノート類をどうするか.いまさら人目に触れさせるものではない.裁断するのは手間なので、少しずつ燃えるゴミとして出すしかない.
考えてみれば中学時代の日記から今日まで,膨大な量の字を書いてきた.ほとんどは書きながら考えただけである.そしてそれぞれの時代は終わっていった.結果,残されたものはウエブに置いているものだけである.それも客観的には自己満足に過ぎない.しかしまた,これが言葉と字を持った人間が生きるということなのだろう.文字は書いてそして流れてゆけばよいのだ.物持ちがよいというかなかなか捨てられない性分であったが,自分の身心で語れることしか語れないのだ.この歳になってようやくそのように考えることができ,捨てることができるようになった.
捨てるものを整理しながら,昔,自分で出していたミニコミ等を読み直している.今ならブログというところだが,昔はミニコミだった.考えていることは,ほとんど進歩していないとも言えるし,問題意識が変わらないとも言える.こうしてこの二,三日,昔の資料,アルバムなどを開き直し,自分の来し方を振りかえっていた.
しかし振りかえるのはるのはもう終わりにして,前に進もう.この先,今の自分のなかにあるものをたよりにして,若い頃からの問題意識にそれなりの結論を出してゆかなければならない.つくづくそう思った.写真は,カネノナルキの花.カネはなくても花は咲く.