小沢無実

今日は京都で授業.その前に関電前座り込みに加わるために早めに家を出た.10時過ぎには小沢無罪の報が流れていた.検察審査会によって強制起訴された小沢一郎・元民主党代表に対し,東京地裁・大善文男裁判長が無罪判決を出した.判決文を読むと,事実関係の推認を重ねながらも,しかし共謀の証拠はないというもので無罪であった.秘書の虚偽記載についてはあったとしながらも,裏金隠しではなく事務的な過誤であると認定している.
それでもマスコミはあいかわらず灰色無罪であるかのような報道をくりかえしている.そのなかで『琉球新報』の社説は立派である.実際,小沢氏の政治資金団体陸山会の土地取引を巡り,政治資金収支報告書の虚偽記載が問題視されたが,秘書を含めて責任を問われるようなことはまったく何もなかった.逆に日本の司法権力の腐敗,法に則る精神の欠如,アメリカの意を汲む悪代官としての姿が浮き彫りになった.この裁判は政治的謀略以外の何ものでもなく,はじめから一貫して国策捜査、国策裁判であった.
政権交代の立役者であった小沢氏の元秘書らをいきなり逮捕し,小沢自身をも裁判にかけることで、その政治活動を封印することが狙いだった.ウィキリークスが暴露した米公電の中に、米国が鳩山ー小沢民主党政権を切り捨てて菅民主党政権を傀儡化しようとしたことがあるように,この陰謀の背後にはアメリカがあった.それは例えば「和順庭の四季おりおり2011/01/22(土)」等に詳しい.また2006年7月のメキシコ大統領選挙でもまったく同じことがあったが,それについては「杉並からの情報発信2012/04/28」がよくわかる.
今回の判決はけっして「裁判所が良心を示した」ということではない.このような国策裁判ではその判決内容のすべてが力関係で決まる.この三年間,多くの一般市民の粘り強い闘いがあった.大阪でも毎週末駅頭で呼びかける活動も続けられて来た.それを土台に行動力のある市民や心ある議員が検察審査会を追究し,告発し,最高裁事務局や検察司法を追いつめてきた.このような市民の力が,これ以上無理筋でいけば,それだけよけいに検察や最高裁事務局が不利になるという判断をなさしめ,はじめて無罪になったのだ.この間の経過は「一市民が斬る」さんのいわれる通りかも知れない.この方は直接最高裁事務局とやりあってこられたので,この辺の感触もその通りなのだと思う.
私は2009年3月「小沢民主党代表の秘書逮捕問題」ではじめてこの問題を取りあげ,可能なかぎりデモにも参加してきた.しかし読みかえしてみると,はじめに検察捜査で小沢氏が不起訴になったときの2010年2月のこちらの判断「小沢幹事長不起訴を読む」は甘かった.つまり彼らはその裏で検察審査会による強制起訴を画策していたのだ.今回も何が画策されているかはまだ見えない.この点で「反戦な家づくり」さんの「小沢氏無罪について思うこと」は参考になる.
いずれにせよ今はまだ問題の端緒が明らかになった段階にすぎず,すべてはこれからであるということだ.言えることは,旧体制が権益を守ろうと何をやってもそれは時間稼ぎでしかなく,結局はうまくいかない.この検察審査会による強制起訴は彼らからすればしてやったりであっただろうが,逆にそれが市民運動に火をつけたのである.かえって市民のデモが日常的になり,下からの民主主義が根づく過程となった.四十年前のベトナム反戦運動でも「市民」がいわれた.しかし当時の「市民」はどこか根なし草であった.以来四十年,市民がようやく事実として歴史に登場した.旧体制の画策した強制起訴が,逆にそれに対抗する市民を実体と力のあるものにした.圧政,悪政が人民を鍛えるというのはいつの時代も真理である.
この力は今後必ず新しい段階をきりひらいてゆくだろう.関電前の座り込みで,槌田先生は今日もひとり黙然と座り込んでおられた.現代は,帝国アメリカの強欲な資本主義と闘い,人間としての原理をうち立ててゆく時代である.その姿にそれを実感した.歴史において,道は曲がりくねっているが,必ず到達すべき所に到達する.
季節はもう藤の花である.写真は晴れた空の下の公園の藤棚,そしてツツジの花に寄る花アブ.