続く関電前集会

 大阪肥後橋の関電本社前集会にいってきた.問題作成の方もようやくめどが立ち,8月最後の日に大阪まで出てきた.一昨年来,御堂筋デモで知りあった同じ西宮のYさんと出会い,年寄り同士で声を出してきた.6時前から夕立.ものすごい雨だった.こちらは傘なし.木の下に入ったがずぶ濡れ.これでは人も集まらず今日はどうなるのか.しかし西の方は晴れている.それで間もなく雨も上がりそれから人が出てきた.今日は関電社長が大飯原発にいって今後も原発の稼働を続けることを副大臣に言ったとかで,皆の怒りもいつも以上.結局,いつものように2000人は集まっていただろうか.
 それから7時半まで「再稼働反対」を中心に声を出して戻ってきた.東京でも集会が開かれ,また全国各地で同じように金曜行動が行われている.Yさんとも話していたのだが,この人々の動きは一過性のものではない.日本の政治がどこかで大きく変わらないかぎり,人々の動きが衰えることはない.これまでなら,デモなどで出会いそうもない年寄りが連れ立ってきている.一人仕事帰りに来ているという見かけの人もいる.この動きはどこかで主催者の意図を越えるかも知れない.私自身はこれまでこういう人々の動きのいろんな局面で渦中にいたり立ち会ったりしてきた.それで,わりと冷静に歴史を見ておこうと感情をおさえている.しかしこの動きが明確に政治目標を もったとき,こちらももう少し前にいるかも知れない.
 それにしても学生の動きが目立たない.組織として参加しているのは奈良女子大自治会のみ.それと神戸大学学生有志.名前が出ているのはこの二つのみ.彼らは昨年の反原発デモのときから参加している.しかし,それ以上には広がらない.まったく関西の大学生は何をしているのか.学生は大学の外に出て街頭に立てといいたい.歴史を肌で感じよといいたい.その一方で,子供を前に抱いた若い母親が参加しているのを見ると,何かたいへん崇高なものを見たような気がして,まったく手を合わせて拝みたいくらいであった.しかしそれはこらえて,皆で声をあわせてきた.彼女は子供を産んでその子の未来を思うとき,いても立ってもいられない気持ちで出てきたのだろう.
 思えば,戦後日本の歴史は,世界史上にもまれなほど,見かけの繁栄とは裏腹に,非人間的なごまかしの時代であった.戦後の歴史はポツダム宣言にはじまる.これは1945年の7月26日に発せられた.しかし,天皇家の存続が保障されていないということで受諾しない.これは皇統の存続を表に出しているが実は日本官僚制の存続であった.その確認のために時間がたつ.その間にソ連の参戦があり,広島,長崎の原爆投下があった.負け戦はさっさと白旗を掲げるのが民の苦しみを小さくする最上の方法であるというのは古来兵法の常識であるが,その逆をやった.そして最終的に天皇と官僚制はアメリカに命乞いをし存続が許され,ポツダム宣言は受諾された.戦争責任は問われないまま今日に至り,このとき生き残った日本の官僚制が原子力村を形成,そしてそれが東電核惨事を引きおこしたのだ.再び核惨事の責任を誰もとらず時間が経過している.
 この戦後史の構造はようやくに近年暴かれつつある.それがさらにひろく知られ,そして今日のような運動の参加者に共有されるとき,はじめて新しい時代の扉が開かれるだろう.その課題が現実のものになりつつある.しかし時代の要請を受けとめる思想的な,あるいは言語的な,さらにいえば運動方法論的な準備もまた必要なのだ.首都圏反原発連合の試みは,まさに運動方法論的な試行錯誤である.準備なくしては時代の動きが流産することもまたありうる.私は自分の問題意識にもとづいて,基礎的と考える仕事に専念したい.と思いつつ,それでもデモや集会があれば出かけてゆく.
 かくしてたいへん充実した夏が終わった.秋はさらにこれを深めるときだ.いつの間にかツクツクホウシが鳴いている.ヒグラシはまだ聞かない.明日明後日は体を休めて,原稿整理と新学期の準備をしよう.
追伸:1日の朝,夙川で沢ガニを見つけた.雨の後出てくる.