人間として

明日は「原発ゼロ社会実現シンポ」である.その受付を頼まれたので,明日は受付に坐っている.こういう集会などに参加するとき,昔からいつも「一体自分は何々として」こういうところにいるのだろうと考えていた.学生の頃は学生として全学集会や理学部の会議に出たし,また街頭ではベ平連のデモに出ていた.教員になってからは,兵庫高教組西阪神支部の組合員として,それこそ明日の会場の西宮勤労会館の支部集会にいた.それから西阪神支部支部長としてというのもあった.芦屋市のメーデーなどは芦屋地区労の役員であり,市高教組の委員長としてというのも6年続いた.その後党派の一員としてというのもあった.いつも組織の一員だった.
9.11の後,アメリカがはじめたイラク戦争に反対する集会に出たとき,そのときはもうすべての活動から身をひいた後であったが,「何々として」がまったくなく,一体自分は何者なのだということが結構深刻な問題であった.それで自分の内部で対話をはじめた.たいしたことは考えられなかったが,10年近く考えていただろうか.ようやく「人間として」状況への発言もすれば行動もするということに落ちついた.その記録が「対話集」である.ある日,車を運転していて,そうだ自分はただ人間としてやってゆけばよいのだとわかった.「自分探し」という言葉があるが,私は自分探しに60年以上かかった.見つかったのはただの人間.相国僧堂に書いたことどこかつながる.青空学園でいろいろなものを書いてきて,はじめてそのように思うことができたような気もする.最近はようやく,頭が働き命あるかぎりこれでやってゆけばよいと,心から思えるようになった.
日本においては「人間として」ということが歴史上初めて,確立しはじめている.まさにそれは現在のことと思う.いろんな人が,デモをしながら,またいろんな活動をしながら,同じように自分を振りかえっている.人間として黙っていられないから,デモに参加する.自分もまたそういう過程を踏んだし,それは必要な過程であった.近代というのは,こういう一人一人の自問自答を経て,はじめて地についたものとなる.「人間として」を打ち立てるということが,現在の市民の政治活動の場ですすんでいることなのだ.
やはり一人一人がこの過程を経なければ,人と人の本当の繋がりもまたありえない.歴史過程を観念で飛び越えることは出来ない.一気に社会主義などということは,ありえなかった.近代は必然であり,国民革命的な過程は避けがたく,その内実を実際に地について自分で経験することは,やはりそれぞれの文明の歴史過程として必要なのだ.最近のような選挙など表の政治の動きと同時に,このような一人一人の内の過程こそ大切なのだと思う.またこのような過程を経ることが,その集合体として本当の政治的な力を生み出す.
ということで,さて明日はどのようにな集会になるのだろうか.