追悼,中沢啓治さん

はだしのゲン」の漫画家,中沢啓治さんが19日午後2時10分,肺がんのため広島市内の病院で亡くなられた.73歳だった.6歳の時に広島市内で被爆,父と姉,弟を失われた.中沢さんはわれわれに重い課題を残して逝かれた.大新聞やテレビも彼の死を報じるだろうが,彼が何に怒り,どのような課題を残したのかについては,絶対報じない.トゲを抜いたうえでしか報じない.
ささやかなことしかできないが,せめてこのようなブログの連携で彼の怒りを共有できればと思う.同じ気持ちの人はおられるのだ.keniti3545の日記さんも中沢さんのことを書いておられる.こういう輪が広がればと思う.さて,中沢さんは去年の夏,『週間金曜日』(858号,2011.8.5)の特集「原爆と原発 怒りの表現者たち」で質問に答えて彼の思いを語っている.詳しくは本号を取り寄せるか『週間金曜日』の既刊分を置いている本屋で手に入れてほしい.彼はこのときすでに肺がんの手術をしていた.この記事はいわば彼の遺言とも言うべきものである.彼のお母さんは1966年に60歳で亡くなられた.そのときのことを彼は言う.

−ABCC(原爆傷害調査委員会)は被爆者を実験台にし、遺体に群がるハイエナのようだと批判されてます。
中沢 お袋も手当てをしてくれると思って行ったら、頭のてっぺんから足の先まで素っ裸にされ、隅々まで調べられて、はい終わり、って。何のために行ったんだ、とぼやいてました。書類には姓名でなく標本名と書かれてるし。
お袋が死んだときも、東京から駆けつけると家の中が妙な雰囲気で、どうしたんだと間くと、さっきABCCがお袋の内臓をくれと言って来たと。きれいに縫合して返すから内臓くれって。次男が怒って「何言うか!」って追い返しだけど。いまだにお袋を追い続けてるのかと腹立ってねえ。やっぱり貴重なんてすね、生き残った人間が。今もやってるでしょ。

そうだ.福島でもやろうとしている.ABCCにつながるものたちが福島でうごめいている.母親を火葬にしたとき,骨がぼろぼろで残らなかった.このことは「ゲンは怒っている」に詳しい.このときの怒りから原爆を描くことを決意.初めて原爆を扱った「黒い雨にうたれて」を発表した.そして1973年から週刊少年ジャンプ集英社)で「はだしのゲン」の連載をはじめたのだった.彼の怒りはしかしもっとさかのぼる.戦争の始末をつけることに関して,去年「敗戦記念日に」にも書いたが,彼は次のように語っている.

中沢 アメリカはポツダム宣言で予告したわけです。強大な破壊力の用意があると。あの時点で降伏すれば広島と長崎の被爆はなかった。そもそも天皇東京大空襲を巡幸して惨状を見てるんだから、負けることはわかってたはずです。天皇制の保証がないから拒んだんでしょ。その天皇が、戦後のうのうと広島に来て、日本人がまた万歳して喜ぶ。イタリアではムッソリーニが逆さ吊りにされて、子どもから老人までが石を投げたんです。ニュース映画でアップになると、どの顔も、どの顔も、よくも俺たちをこんな酷い目にあわせたな、お前を許さんぞ、って怒りの顔です。
−日本にそういう光景はなかった。
中沢 逆ですよ。腹が立ったのはね、学校で先生が半紙を配るわけです。真ん中に円を描け、赤のクレヨンで塗りつぶせって。竹に巻きつけて、翌日、相生橋の土手に並んで行幸する天皇に振れと言う。なんちゅうおめでたい日本国民か。僕は持たないですよ。冗談じゃない、誰が日の丸なんか振るか!
天皇の乗ったフォードが目の前を通るとね、黒いソフトに白いシルクのマフラーが見えた。それ見たら一二月の震える寒さの中で、火がついたように熱くなったですよ。こいつのせいで弟も姉もおやじも死んだんだと、悔しさではらわたが者えくり返った。転がっている瓦の破片を下駄でパ〜ンと蹴ったら天皇の車のタイヤに当たって跳ね返ったの。ものすごく鮮明に覚えてるんです、本当に腹が立ったから。他の生徒は嬉々として万歳してるの、教師が音頭とってね。本当にもう馬鹿じゃないかと思ったね。悲惨な焼け野原で飢えてる子どもたちに、その責任の頂点にいる奴に万歳せいって。教育は恐ろしいです。

イタリアは激しいやり方で,しかし確かにあの戦争の始末をつけた. そして今,イタリアも国民投票脱原発を決めた.私自身は,自分の考えをまとめるために,あのの戦争とその後始末という問題については本の紹介を通してここにも書いてみた.『魂鎮への道−BC級戦犯が問い続ける戦争』を読む六五年目に.いずれも3.11核惨事の起こる前のものだ.いま読めば甘いところが目につく.が,考えてきた跡でもある.そのうえで思う.日本,ドイツ,イタリアと,かつていわゆる枢軸国としてあの戦争を戦った3国のうち,2国が脱原発を決め,福島の核惨事を経て,しかも地震列島にある日本のみが,いまも原発維持である.われわれはかの国の人々から遠く遅れてしまっている,と.
かつて戦争を遂行した,天皇とそれを担ぐ官僚による支配体制,これは明治10年頃に成立したのだが,これを今日の政治の趨勢をふまえて旧体制と呼ぼう.この旧体制は脱亜入欧の果てに,ついにあの戦争に行きついた.しかし大義なき戦争は早晩行き詰まる.中沢さんも言われるように,1945年の春にはすでに戦争能力がなくなっていた.しかし,1945年の7月26日のポツダム宣言を直ちには受け入れず,旧体制を温存するための工作に時間を費やした.そして,8月6日のソ連参戦と広島の原爆,9日の長崎の原爆を招いたのである.これは事実である.その責任はとられていない.
その旧体制はあれだけ「鬼畜米英」を叫び国民を戦争に動員したにもかかわらず,戦後は一転して, 沖縄を人身御供に差し出し,ひたすらアメリカに従属した.官僚支配の旧体制を温存するためには,まさに何でもする.そしてアメリカの核戦略のもと地震列島弧に50数基の原発を作り,終に福島の東電核惨事に至ったのだ.ドイツやイタリアにできた脱原発がなぜ日本でできないのか.それは日本があの戦争の始末をつけていないからだ.原爆をもたらしたものと,そしてそのものの責任回避を許し戦争の始末をつけないことと,そのことへの怒りを生涯通して貫かれたのが中沢さんであった.彼はまた言う.

東京で、何気なく「広島で被爆した」と言ったら、凄い目で見られてね。東京の人は放射能がうつると思っていた。いま福島の被災者が同じ差別にあっている。許せないです。

この言葉は重い.その日本で原発推進自民党が再び政権につく.「他の生徒は嬉々として万歳してるの、教師が音頭とってね。本当にもう馬鹿じゃないかと思ったね。悲惨な焼け野原で飢えてる子どもたちに、その責任の頂点にいる奴に万歳せいって。教育は恐ろしいです。」 これは今回の選挙のことを言っているのかと思うほどの言葉である.日本はこの60年,何も変わっていないのか.
こうして中沢さんは鬼になる.言葉は静かに語られるが,怒りは深く大きく,そして悲しい.中沢さんは生涯かけてなすべきことをやり尽くし,重い課題をわれわれに残された.日本の官僚支配の旧体制=原子力村,これを解体しないかぎり彼の怒りは鎮まらず,悲しみの根は絶てない.困難であるとか,とてもそんなことはできないとか,彼はそんな弱音を許さない.やるしかない.こころざしを受けついで後に続くものたちを,どうか鬼となって見守ってほしい.