格差拡大の30年

 昨日は,私がかつて担任したクラスのクラス会.二年半前に集まって,またやっている.「先生も付き合いいいな.」「そちらが誘ったのではないか.」と言い合いながら再会を楽しんでいる.クラス会と言うより仲良し会であるが,それでも20数年ぶりに会ったという人も来てくれていた.ワイン飲み放題の店で,一人で飲むのとはまた違って,うまい酒であった.彼らも50歳前,もう卒業して30年である.この前のこともここに書いたが,幹事役の彼が連絡してきたときに電話でも言っていた.
 今は不登校とかいろいろあるけど,僕らは一度も学校行きたくないとか思ったことがなかった.今なら僕はいじめられっ子だったかも知れないが,そして僕もふくめてクラスもいろいろな子がいたけれど,学校来られなくなるような子はいなかった.勉強は好きではなかったが,しかし授業は面白いのもあった.ほとんどの者は大学は行かなかったが,進路が決まらないままの子もいなかった.いい学校だった.なんであの学校がなくなったのか.あの高校がなかったら僕らは行く高校がなかった.中学でそんなに勉強できなかった子は,今はどうしているのか.行くところがないのと違うか.
 実際,あの学校がなくなったのこそ中曽根行革である.考えてみれば彼らが卒業してからの30年間,格差はますます広がった.彼らは,底辺の高校を出たと言うことになるが,それでも結構,銀行や中堅の企業に就職し,そのまま30年働いている子も少なくない.そして彼らの子供は半分くらいはそれぞれに大学も行かせ,働いている子供もそれぞれしっかりやっている.彼らはそれができる最後の世代であったかも知れない.イギリスのサッチャーアメリカのレーガン,そして日本の中曽根,彼らの引き入れた新自由主義が,世の格差を広げ,中間層を薄くし,そうすることで世の中のタメをそぎ落とし,殺伐とした世にしてきた.
 それにしても彼らといると,生徒と教師と立場は違うのだが,一つの時代を共有した戦友という感じさえする.そういう教員時代をもつことができたことに感謝している.
 先日街を歩いていると,自民党の自動車が支持者のところにでも来たのだろう.止まっていた.後ろの窓に「日本を,取り戻す」と書いていた.自分たちが潰しておいて何を言うのか.車に人が戻って来たらそれを言ってやろうとしばらく待ったいたが戻ってこない.用があったのでそのまま通り過ぎたが,今の自民党相手にそんなことを言っても仕方がなかったかも知れない.<安倍総理の福島演説で「原発廃炉、反対?賛成?」プラカード自民党に没収された>にあるように,安倍の演説会場で「原発廃炉、反対?賛成?」を掲げたら自民党の職員がそれを没収した.何を掲げようとそれは思想信条の自由である.それを力で押さえ込むのは,安倍改憲後の日本社会の有り様そのものである.こういう自民党なので,道ばたでの立ち話などしない方がよかったかも知れない.それにしても「日本再建,日本を取り戻す」などと潰した当人が言うのは実際腹が立つ.
 彼らとは対話が成り立たないのかも知れない.彼らが対話を拒否している.先日のコメントに私の昔の経験を書いたが,その資料が出てきた.40年前,私は個人のミニコミを出していた.その8月15日号の中に次のように書いているのを思い出した.

 考え方とやり方を他から借り入れて,自分で考えないひとは,その借り入れたことと違うことを言うものに対し,耳を貸さず,レッテルをはり,切り捨てようとする.
 この間,5月15日だったが,こんなことがあった.我々が四条通りを円山公園へ向けてデモしていると道の反対側を,円山公園の方から,数千人になっていると思われるデモがやって来た.その中の,白衣を着て看護婦のあの白い帽子をつけた一団が,我々のデモと道の反対側に来たとき,「暴力集団はカエレ」と黄色い声を張りあげて,我々の方をののしり続けた.我々のデモは人々に開かれたものであったし,事実に反するののしりであった.公衆の面前で.こっちは三百人ばかりのデモ,あちらは数千人.
 あのときは悲しかった.彼女たちの顔は憎悪に満ちていたけれども,不思議と憎しみの気持ちは起こらなかった.

 私の26歳の一文である.この日の情景は今もよく覚えている.四条大橋西詰のあたりでのことだ.おそらくこれは沖縄返還から1年の日のことなのだ.こちらのデモに赤ヘルの人もいたのはあの時代だからそうなのだが,暴力集団と言われることはない.この年の秋に兵庫県で教員になったので,このミニコミは6号で終わったが,ガリ版で作り,毎号30部ほどを郵送で配っていた.今はブログ等々便利になったが,当時は郵送だった.今日のブログの起源は,あの時代のミニコミである.
 私は,このときこんなことを言いながらも,その後多くの試行錯誤と失敗もした.それでも,客観的には同じ側にいながら,歴史の経過で言葉が通じない者どうしは,やはり腹を割って対話する.そうすれば必ず分かりあえると信じているし,このときの悲しみのゆえに,対話を大切にしてきた.しかし,そして,今は新大久保や鶴橋でのあのデモである.「レッテルをはり,切り捨てる」がついに在日外国人に向けられる時代になってしまった.対話ができずにののしりあうこともまた,この40年,いっそうひどくなったのだ.
 まず対話すべきものの間での対話を深める.同じように沖縄返還のあり方に反対する立場でありながら,40年前のあの時のようにののしることは,もう止めねばならない.とはいえ,今日,おなじ脱原発,反TPP,反消費税のものですら,対話し切れていないのであるから,日暮れてなお道遠し,の感もまた大きい.それだけに,言うべきことは言い置かねばならないとも思っている.写真は羽を休めるシオカラトンボ.追伸9日:この暑さに猪も河原に降りてきていた.