秋のおとずれ(続)

 20日の夜,中秋の月が撮れた! カメラの設定を自動にすると月面の明るさにあわせて真っ白な月.そうではなく,月面の兎を撮りたいと思っていた.
 いろいろ設定を動かして試行錯誤の末,ようやくに撮れた.それを画像ソフトで明るくして濃淡も大きくして,ようやく兎が見えるようになった.今年の中秋の名月は9月19日.ほぼ満月の月面である.確かに兎が餅をついている.

あはれとも見る人あらば思ひなん月のおもてにやどる心は 西行

 それにしても,月とは不思議なものである.私にとって印象深い月は,1971年の大晦日に見た月だ.帰省し,晦日の夜半,一人宇治の街を歩いた.県神社から平等院の裏門前を通り,宇治川に出る.川の中之島を通って対岸にわたる.宇治神社の下に,御輿を清めるところだろうか,川べりに朱の門が立っている.そこに立って空を見る.雲にかかった月が,明るく天下を照していた.そのころは,大学院の2年目で,数学研究を離れて別の道でいこうとしていたときだったのだが,この月を見てその気持ちが固まったように思う.
 さらに宇治上神社の方から小さい頃に住んでいた辺りまで足をのばした.家々からは,月の明るさの下で,年越しのたつきの音が聞こえていた.考え事をしているときに見る月は,自分の心を,西行ではないが「おもてにやどる心」として,何か客観的にとらえるのかも知れない.
 そして今朝はイノシシに遭遇した.いつも朝,犬を連れて散歩する住宅地の道に,イノシシの糞が落ちている.昨夜もここを通っていたのだな,と思いながら夙川の方へ.これはいつものことなのだが,今日は土曜日で少し寝過ごして散歩の時間が9時過ぎだった.すると,母親のイノシシがうり坊を3匹つれて,食べ物をあさっていた.この時期,ドングリやその他の木の実が,地面に落ちる.それを食べに来ているのだ.犬を連れてこれだけ近くでカメラを向けても,別にイノシシはこちらを威嚇もしない.彼らも慣れているのだ.それが彼らの人間のなかで生きてゆく知恵なのだろう.
 前に出会ったときは,確かうり坊を4匹つれていたように思う.1匹がうちの近くで車にはねられたのかも知れない.ただ,うり坊の大きさが前のとそんなに変わっていないので,それからいくと別の親子連れかも知れない.イノシシは,母親が子どもを連れて,ねぐらからえさ場へ移動する.子育ての時期,父親はどうしているのだといいたいが,それは彼らの世界の風習.人間が言うことではない.
 こうして秋は深まってゆく.このような季節の移ろいは,やはり一人一人の人生の移ろいと重なって,いろいろと思い,また考えさせられる.
 それにしても,人間界の混迷は深まるばかりである.というより,ひとつひとつの現象は,うわべでごまかしてこれまでのやり方を続けようとする政治が,もうこれまでのようにはいかなくなっていること,それを証明することばかりである.しかし,それでもゴミは掃かなければきれいにならない.ここまでくれば,これは許せないという人間としての叫びを共有しうるはずのもの同士の団結や統一が,本当に必要だ.