どんど焼き

17日追伸:阪神淡路の地震から19年である.阪神淡路大地震から12年などを書いてきたが,ほんとに長い時間が過ぎた.しかしあの地震は今も体がしっかりと覚えている.
 今日十五日で松の内は終わり.越木岩神社にしめ縄や祝い箸などをもっていって燃やしてきた.十五日のどんど焼きは年中行事である.2010年2012年,そして2013年にも書いてきたので,新しく書くことはあまりない.毎年同じことをくりかえす,それが年中行事である.今年は夕方に犬を連れて行ったのだが,この時間には人もつぎつぎとしめ縄などをもってやってくる.境内では甘酒もふるまわれている.冬の籠りが終わり,新しい季節の農耕のはじまり,その準備,その節目が旧暦での松の内明けなのかも知れない.
 越木岩神社は創立不詳といわれるほど歴史は古く,延喜式神名帳に記録がある。ご神体である大きな岩は古くから信仰の対象であったにちがいない.この六甲山系の麓地帯は縄文時代から人が棲み,芦屋市朝日ヶ丘には縄文時代前期の遺跡もある.古くからここで人は命をつないできたのだ.こういう正月行事はどれくらいの時代までさかのぼれるのかわからないが,夏の京都の山焼きなどとともに,不思議に懐かしく心温まる行事である.
 昔,私の小学校では,この日運動場に竹や笹の葉を集めて火をつけ,書き初めや家のしめ縄などいろいろなものを持ちより,それを燃やしてその火にあたるという,それこそ全校どんど焼きを毎年していた.その記憶があるので,よけいにこの日の火には心引かれる.
 元旦から二週間,ずいぶん体力も回復してきた.この間、義妹の還暦祝いで姫路に集まったり,町内の役員の人らが家に来ていろいろ相談したり.整骨院にかよって,入院中の体のゆがみを直したり,また梅田の本屋に出かけたりと,ようやく日常にもどりつつある.そして今年の仕事の具合もほぼ決まり,早速に問題作成の仕事に取りかかっている.
 こういう時に,ふっと気づくのだが,入院以前と退院後では,ものの見え方感じ方など日常の生きているうえでの感覚が,ずいぶん変わっている.生かされていること,その実感,それが感覚の土台にできている.小さい頃から,何かをしているときに,不意に存在の不安とよぶほかない不思議な感覚におそわれる瞬間があった.その意識がおそうと,たちまちそのときしていることが無意味なことに思えるのだ.それが少し変わってきたかも知れない.
 さて,東京知事選挙.細川元首相の立候補である.小泉氏がしばらく表に出てこなくなったと思っていたら,彼は細川氏の担ぎ出しに動いていたのだ.ということは,小泉氏の脱原発も単なる口先ではない.そこに何があるかをいろいろ考えることはできるが,安倍式の軍国復古主義ではもはや現在の世の動きに対応しきれないという,いずれかからの意志で,細川・小泉の動きがあることはまちがいない.
 ここで,先に立候補の意志を示している宇都宮陣営はどのようにするかである.私は具体的には何も出来ていないので,どうこう言うことはできないのだが,主要な矛盾,選挙の対立軸が,脱原発か否かであるのなら,細川陣営と協議をおこない,この点に関して選挙協定をむすんで,票が割れないように候補を統一することが必要である.そして,脱原発の都政を生みだすために双方協力する.舛添候補を破り,安部政権に打撃を与え,再稼働が出来ないような情勢を生みだす.
 そうしたなら,そこからは,また多くの政策や課題で協力もし対立もする.互いに批判しあうことも闘うこともある.それでいいのである.すべての課題で政策が一致することなどありえない.何が主要な問題であるのか,この選挙の主たる争点は何か.その争点で一致するかぎり,他の相違点は互いに違いを認めて次の段階まで横に置く.
 このように,合従連衡しまた対立する.これをくりかえしながら一歩一歩歴史をすすめることは,日本の政治風土では不可能なのか.一部の左翼系政党は小数反対派であることに自己の存在意義を見出している.こういうところの影響下にある組織は,元首相との脱原発での協同や統一には反対し,正しいことを言うことにだけに意味を見出しす.そして多数を形成しようとはしない.しかし,多くの脱原発を願う都民は,まず都政を変えることを願い,投票先に迷わなくてもよいこと願っている.多数を占める脱原発の票が実際の結果に反映されることを願っている.
 この知事選挙について,今の私はそ帰趨を見守るしかないのであるが,とりあえずこのように考えている.