むのたけじさん

 100歳のむのたけじさんが,2月3日,都知事選で脱原発候補の統一を呼びかけ,記者会見をした.その様子は,田中龍作さんのところにある.ぜひ全文読んでほしい.その記事から:

 むの氏は開口一番、「社会党関係者、共産党関係者、組合関係者いませんか? おかしいな? おかしいよ」と声を張り上げた。むの氏は「人民の幸せのためにまとめることができない政党は(選挙後)、吹っ飛ぶと思います」と暗に社民、共産両党を批判した。
 むの氏は戦後の大衆運動が盛り上がっては分裂し、崩壊してきた歴史をふりかえった。2.1ゼネスト(1947年)、60年安保、三里塚…「数々の闘いをやってきたが、民衆のほうが負けてしまった。息が切れてバラバラになっちゃった」。
 「70万人で議事堂を囲んだ60年安保を思い出した。日本の運命がどうなるのか、何としても日本の路線を変えなければならない。争われるのは都知事のイスひとつだが、そこに込められた時代の問いかけは、第三次世界大戦原子爆弾の乱れ飛ぶ世界を許すのかどうかだ。大事な大事な分かれ道だ」。むの氏は危機感をあらわにした。

 むのたけじさんは戦中は朝日新聞の記者であった.戦後,戦時中の記者としての責任を感じて朝日新聞を退社.1948年秋田県で週刊新聞「たいまつ」を創刊,言論活動を続けられた.そして100歳となった今,これを言わねばならないむのさん気持ちを思うと,私はまったく厳粛な気持ちになる.
 1970年前後から東京では彼に共鳴する人らで『月刊たいまつ』という雑誌も出ていた.私は1973〜4年の頃,その大阪での読者会に顔を出していた.その読者会で知りあった幾人かは,今も友人つきあいである.「人と会う(続)」と「友あり遠方より来たる」に書いた2人がそうだ.だからむのさんの名前は本当に懐かしい.1974年1月号の「月刊たいまつ」は手元にあるがそれは『特集・私の統一戦線論』である.実はここに教師をはじめたばかりの頃の私の一文「自らを耕しつづけるなかから」が載っている.読みかえすと,そのなかで

 私たちはまだ、本当に人々の心にふれ、心をゆり動かし、心を一つにして敵に立ち向かえる、日本人の自立宣言を、見出してはいないのだ。…… 日本の持つ問題の個別性に徹することで、その個別性をつき破り、国際連帯に向かおうとする運動は、…、まだその途についたばかりなのではないでしょうか。

と書いている.まったく,問題意識ばかりが持続して,何も出来ていない.この一文を書いた頃からちょうど40年になるのだ.都知事選の現状を見れば,一体どれだけわれわれは前に進んだといえるのだろう.それとも歴史とは,一人にとってはとても長いが,それでもこれくらいの時間が必要なことなのだろうか.それでも,100歳のむのたけじさんを思えば,まだまだあきらめずに出来ることをしなければならない.つくづくとそう思う.ついでに,このなかで次のように,今問題になっている党を批判していた.

 そして、現在「日の出の勢い」とマスコミにいわれている党が、その党員ひとりひとりが、大衆運動と接するところで、いかにひとびとの自立ということを軽視し、日本帝国主義の現代天皇制の下の差別分断支配のありようへの認識を欠き、自分自身の内に巣くっている差別意識を指摘され自覚しつつやるのがしんどいなあというひとのその心情を組織することで数を増やしてきたかを、見せつけられてきました。何度もいろんな場で、それに出会うと、自分の出会ったのがその党の中で特に質が悪いところだったのだと思うわけにもゆきません。

 まったく,この党は40年変わらなかった.今度も内部からは変わらないだろう.人々が乗り越えてゆくしかない.むのさんの呼びかけに感銘して,『月刊たいまつ』に寄せた昔の自分の一文を思い起こしてしまった次第.写真は夕日に映える昔の農業用水わきの水仙