言葉と数学は人間の条件

 12日〜14日,京大の数理解析研究所(RIMS)で,研究集会:教育数学の一側面−高等教育における数学の規格とは-がおこなわれた.いわゆる純粋数学の研究所である数理研が,教育に係わる分野の研究会を研究所の一環に位置づけることは,かつての数学像からは考えられないことなのだ.蟹江さんらの提案が受け入れられ,こうして開催されることに,時代の変化を思わずにはいられなかった.
 私は,3年前の同じ研究集会で,昔の同級の蟹江さんに再会した.そのときのことは「人と会う(続)」に書いた.12日は,塾の仕事があり行けなかったが,13日,14日は参加し,13日朝は1時間ばかり報告した.今回は彼が「君に思いの丈を1時間語ってもらおうと思います」と言ってきてくれたので,やらせてもらうことにした.研究会の趣旨は,大学での数学教育をこれからどのように再構築してゆくのか,である.しかし,問題の背後には,日本における小学校から大学初年級までの数学教育が,今大きな曲がり角に来ているという事実があり,現代社会のなかでの数学ということをもう一度とらえ直さなければ,何もすすまない.
 それで,大学数学そのものに関すること以外にも,関連したいくつかの視点からの報告も用意されていた.14日には,「ビッグデータ時代の統計学」や,小学校から大学までの確率や統計の教育課程をどのようにするか,などの報告もあった.これらを聞きたくて,14日も参加した次第であるが,13日の他の報告も含めて本当にいろいろ学ぶところが多かった.また大学教育でのいろいろな試みや,大学生の現状の報告を聞いていて,確かに大学も大変でいろんな試行錯誤がおこなわれていることがよくわかった.
 私の方は40年にわたって高校生に数学を教えてきて,その上でいま考えていることを報告した.60人ほどの人が聴いていてくれた.その予稿は先のサイトから読める.基本的に,これまで青空学園で書いたり言ってきたことごとの再編集である.最後に,どのような場であれ,出会った高校生には,本当の勉強と学問としての数学を伝えたい.しかし今の日本の高校数学の現状を見ると,やはりこのままではいけないし,教育数学の今後の展開に期待したい,ということで話を終えた.後から考えると,あれもこれも話しておけばよかったと思うが,それはこの集会での討論を踏まえての報告書である講究録に書くことにしよう.
 13日の日程の後,数人と食事をした.そこへの道すがら蟹江さんと色々話した.私が「もう京大で何かすることはないと京都を出たのに,40年してまさか数理研で喋るとは思いもよらなかった」といったら彼は「それも講堂でな」と笑っていた.そして「間のとり方とか,お前の話は大学の人より十倍はうまい」と言ってくれた.百万遍の古い店に8人ばかりが集まり,色々と話しながら食事をした.
 この集会は開かれたものであり,中学や高校の先生や,高校生の参考書を書いておられる先生なども来ておられた.青空学園のことを知っていてくれて,私が話した後来てくれ,意見や名刺を交換する時間ももてた.準備された主催者はほんとうに苦労が多かったと思われる.改めてお礼をいいたい.私もいろいろメモを取りながら,人の話を聞いてい考えていると,ふくらんでくることが多かった.
 数学は現代文明のもっと基本的な方法である.それは,その文明の下で生きる人間にとって第二の母語,つまり成長のなかで身につける言葉の一つそのものである.これは客観的な事実であるが,それがどのように意識され,また社会的に制度化されているかは,それぞれの文化によって異なる.あるいは,そのことがその文化を特徴づける.ここで文明とは,技術の発展段階によって規定される人間と世界との関係の総体であり,文化とは,その文明のもとで,言語や歴史と一体のものとして特徴づけられる国家や共同体のような組織のあり方である.
 言葉と数学の言葉としての共通性は,現実の存在を分節してつかむことである.言葉も数学も,現実からすれば抽象化された道具である.数学の解析学は実数の連続性を基本にする.しかし実際にものには最小の単位がある以上,連続ということはあり得ない.では運動は連続か.量子力学の問題としてそれもそのままでは連続ではない.連続な実数で現実を近似するのである.
 近似するものとしての数学と現実の存在と,そしてその間をつなぐ近似の方法との問題.これは量と数の問題でもあるのだが,数学と現実を結びつける方法論が,少なくとも日本では弱く,そのために,大学においても,もっとも基本的なところで試行錯誤がくりかえされている.具体的な方法云々の前に,もっと基本的なところで思想を掘りさげないと,問題をときほぐすことができないのではないか,そのように思われた.
 大データのことについて言えば,現代の資本主義は大データとして現実をつかもうとする.だが,日本では統計や大データ処理はそれぞれの分野の中に統計処理の専門家がいるだけで,統計が一つの専門分野として確立しているかと言えばそうではない.だからその養成は重要であり,アメリカや欧米だけでなく,中国や韓国にもその点で大きく立ち後れていると言う報告もあった.その通りだと思う.その上で,現代の資本主義が大データを持ちだしたとき,それに圧倒されないでその意味を考えうること,つまり大データに対する人間としての心構え,この教育も大切ではないか,などとも考えた.
 人が人間になるために,言葉を身につけることと数学を修得することは条件である.この条件は必要条件である.しかしまた,十分条件ではない.人間は,この必要条件を身につけたうえで,それぞれ自分はこれだというところで,生きてゆくのだ.この文明のもとに生きる人間にとって,数学を学ぶことをとおして,根拠を問い探求し論述することを身につける.あるいは,数としてとらえられた情報から,現実の構造をつかむ.等々は方法であり技術であるとともに,それを学ぶことによって人が人間になるという,人間形成の基本,土台でもある.
 この意味での言葉と数学の学習,その教育が,やはり日本社会では軽視されていると言わざるを得ない.それは近代日本の構造的な問題でもあり,ただちに解決する問題ではない.何人かの人とも話したが,いまはそれぞれが,それぞれの場で,何かこれまでのやり方の殻を破る試みをおこない,それを結んでゆく.そういう時代,段階であるように思われる.青空学園などはまったくささやかなことでしかないのだが,そう考えれば確かにこの時代につながっている.それを再確認できたのも大きかった.
 以上は,集会の場でのメモと帰りの電車の中でのとりあえずの入力に少し手を入れたものである.これから時間をとって,考えていきたい.これは青空学園の場で考えてきたことの続きになる.それぞれの報告者は他の報告や討論をふまえて,7月までに講究録を書かなければならない.今ここで書いたことごとをもっと深めて,まとまったら講究録も書き上げておきたい.このようにいろいろ考える機会をくれた旧友に感謝する.
 京都も雪で関東にもどられる方も多く,新幹線も遅れているので少し早めに終わった.こちらはそれからあるいて吉田神社に参り,もどってきた.写真は上から,雪の数理研.数理研4階から見た如意ヶ嶽の支峰である送り火大文字山.木々の向こうに大の字が見える.百万遍念仏寺.後二条天皇陵,後ろは京大北部構内.吉田神社鳥居と拝殿.吉田界隈は,昔あった本屋もなくなり,なんと言っても吉田構内に残っていた三高時代の木造建築が入口横の守衛室以外ほとんどなくなり,今昔の感深し.それで西部講堂はどうなってのだろう,まだあるのかと気になり,東大路をわたってまわったら,今もあった.昔の京大周辺を思い起こしながら歩くのは病み上がり(ほんとうはまだ上がってはいないのだが)の私の感傷にすぎないが,それでも小一時間歩いてきた次第.こういう時間がもてたことに心から感謝する.