新課程の数学 III 微積

季節は移ろう.写真は早春の名残りの椿.そして「山路来てなにやらゆかし」というすみれ草ではないがスミレ似の花.葉は似ていない.それから早くも咲き始めたモッコウバラ.そして私の好きなシャガ(射干)の花.昔,小学校の裏の竹藪の片隅の日だまりに咲いていた.それに見とれていたのを今も覚えている.
さて本題.今年の3年生は,いわゆる脱ゆとり世代の最初の学年である.私は,ゆとりをもって教育し,また勉強すること自体はまったく否定しないし,むしろ賛成である.が,とりわけ2002年の指導要領改定以降の「ゆとり教育」は,教育の中味が薄っぺらになった以外は何の意味もない.そしてこの10年,学校ではうわべだけの人間つきあいが普通になり,クラスの雰囲気は偽善的で,それに耐えられないで不登校になる生徒もかえって増加した.
脱ゆとりということになり,教科書も教科内容もずいぶん変わって,その最初の学年が高校3年になった.去年までの高3生と少し雰囲気が違うのは確かで,90年代後半にこちらがこの業界で教えはじめた頃の高校生の感じである.2003,4年の頃,教育課程が変わると高校生も校のように変わるのかと感慨をもったことがあるが,今度もその感はある.この十数年,高校間の格差も昔よりは大きく広がり,学力差も広がった.私の出会う生徒はどのみちその上の方であるから,今の高校生総体のことはわからないが,それはまちがいない.
私がかつて教員をしていたいわゆる底辺を支える高校は,今は廃校になったり,あるいは定時制高校が単位制高校になったり,いろいろ変化し,昔の私のいた高校に来ていたような生徒は,今は受け皿がなくなっているのかも知れない.もうこちらは責任もってこのような問題に何か言える立場にはないが,せめて教科としての数学については,よく知っておきたい.
ということで,今年の教科書を読んでみた.私が見たのは数研出版のいくつかの段階の教科書のうち最上位のものである.これは,いろいろなことが「発展」や「コラム」のページに書かれていて,これまでの教科書とはずいぶん違う.しかし,その数学IIIを読むと,基本的な誤りがいくつかある.243ページに次の記述がある.

  定積分を,上のような和の極限として求めることを,定積分区分求積法という。

まず,「求積」とは『解析概論』の第3章冒頭「28 古代の求積法」にあるように,一貫して面積や体積を求めることであった.ところがここでは定分を求めることとされている.
「定積分を和の極限として求める」と書かれているが,現行高校数学の体系をおいて,本来の解析の立場でいえば,これは右辺の和の極限が左辺の定積分の定義なのであって,一方から他方を求めるということではない.
さらに,実際に高校生がやることは,そしてまたこの教科書の例題にもあることは「数列の和の極限を定積分で計算する」ことである.この記述と実際は逆である.これをまじめに読んだ高校生は,習ったことと逆で,いったい何が言いたいのかまったく理解できないだろう.どうしてこのようなことになるのか.246ページに次の記述がある.

  歴史的には,定積分は①で定義された.

教科書の著者は,この記述で,本来はこれが定積分の定義であるということが言いたかったのかも知れない.しかし,この教科書の文面からは,かつてはこのように定義されていたが今は違う,と誤ったことが高校生に伝わる.あるいは,原始関数の値の差として定義する現行の定義の方が正しい定義であると高校生が誤解する.現在の日本の高校の教科書のように定積分を原始関数の値の差で定義する方が,無理なのである.このような定義を教科書に載せているのは日本くらいなものである.この誤りを正すことなく教科書をつくるので,いろんなところで矛盾が出るし,記述が混乱する.この教科書の著者にはこちらも名前を知っている人が幾人かあがっているが,彼らはこれを知っているのだろうか.それとも名前を貸しただけなのだろうか.
だから脱ゆとりといっても,問題は何も変わっていない.このように日本の高校解析は多くの問題をかかえている.これに対して,せめて教える側は本来の解析の単純で明解な道筋をつかんで,高校生から何か質問があればいつでも応えられるようにしたい,これが『解析基礎』を作った意図の一つであった.今読みかえすといろいろ不十分な点が目につく.それでこの改訂に取りかかっている.
昔から教科書とは,誤りがあり論理の穴があるものだった.高校のときに習ったO先生は「教科書の穴が見えるようになれば一人前だ」といっておられた.それでこちらは教科書の記述の根拠をひとつひとつ調べていったのを覚えている.それは勉強になった.だからこの教科書もあえて反面教師用に記述をいい加減にしているのか,といいたくなる.まえに「複素数の構成」の中で次のように書いた.

 2003年からまた複素数平面が高校数学から消える. 2012年に復活したが今度は行列が消える.このように消えたり復活したりするのは,日本の教育政策に理念がないからだ.
 青空学園数学科は,高校時代に勉強するべき内容は長い歴史のなかで形成されるものであって, 国の教育政策で変えられるものではないと考えている. ド・モアブルの定理,複素数平面はまさに高校生が学ぶべき内容の一つである. 小学校の教育課程が世間の批判を受けてまた変わろうとしている. まったく右往左往しているのが今の文部科学省の姿だ. 複素数平面を高校数学に入れたり入れなかったりしているということは, 教育課程を決めている人がいかに高校数学に対してしっかりとした見識をもっていないかを示している.

いずれにしても日本の近代教育は,一度ご破算にしてやりなおすくらいでないとどうにもならないところに来ている.高校でもそうだし,中学もそうだ.大学初年級もそうである.そのあたりも考え,青空学園をやってきたのだが,日暮れて道遠し,であることに変わりはない.ただ,それでも独りで考え悩んでいる高校生や大学生,あるいは教員が,この日本のなかにいることはまちがいない.こうして入り口を開けておくので,数学上の悩みに出くわせば,遠慮なく聞いてほしい.ただしまず自分でできるところまで考えてから,である.