5月の風と関電前行動

端午の節句も終わり新緑の時節である.今日は5月最初の関電前行動の日.こちらは午前中町内会の会議.それから戻って『解析基礎』第三版をいろいろ考え,夕方犬の散歩を終えて大阪へ.雨あがりの新緑は美しいが,世の動きは嶮しい.7時に関電に着く.5月の海風の吹く大阪は堂島.まだ空が明るい.季節の移り変わりを思わずにはいられない.この関電前行動に参加するようになって間もなく2年である.安倍政権の偽りとごまかしが横行した2年であった.何が景気回復だ.何が日本を取りもどすだ.
今日の関電前行動はいつも以上に緊張感と行動の盛り上がりがあったように思う.大飯原発差し止め訴訟,差し止めを認めない判決が出た.この訴訟のビラをいつも配っている人に聞くと間もなく出る行政訴訟の判決とあわせて今後のことを考えるとのこと.裁判そのものの結果ではなく,裁判を通して関電や裁判所の現実を皆の前にはっきりさせることに意味がある.これからもがんばってほしい.いろいろとあり,参加者にも,もういちど原発変態の動きを盛り上げてゆこうという気持ちがこもっていたのだ.
いつもの彼は行くというメールがあったのだが,会えなかった.風邪でもひいたか.お互い無理をせず行くしかない.と言うことで今日は一人で声をあげていた.最近,坐り仕事が増えて少し腰が痛い.それで今日はリュックでいって姿勢を整え声を出した.すると腰の調子もいい.この関電前行動はわれわれには適度な運動でもある.参加者はいつものように60人くらい.
hatehei666さんが『自発的従属論』について書いておられた.読ませていただき,いくつか,そうかと納得するところがあった.教育と世間の習慣,これが働いて人間は大きな力に自ら進んで従属するようになる.このことへの深い考察を,16世紀,近代フランスのその始まりの頃に,わずか18歳の少年が書き残していた.そしてそれが近代の終末にある現代日本にそのままあてはまる.この,支配する大きな力の,その源をたどると,明治10年のころの政治変化を経て成立した日本近代官僚制とその支配に行くつく.人々を自発的従属に囲い込む支配制度,これは1945年の敗戦を生き延びた.そしてそれが行きついた果てに,福島の核惨事があった.
しかしそれから3年,まだ何も変わってはいない.かつては原発は安全だという安全神話があった.いまは「それは風評だ.汚染はない」という風評神話がある.しかし事実は風評ではなく,現実の核汚染である.そして真実を語るものを風評を流したといって弾圧する.そうだそうだとそれに雷同するもの少なからず.汚染の中に置かれればそう思うしかないのも現実だ.その現実を自発的従属によって受け入れざるを得ないとする方が日本国中多数である.
その一方で,こうして関電前にも人が集まり,東京でもあれだけの人が声をあげる.もういちど脱原発のうねりは大きくならざるを得ない.自発的従属を現実に学んでやめた人々,そのくびきを断ちきって考え行動はじめた人々.そのつながり.その人の輪.それをまとめる政治勢力はまだ形成されていないが,しかしここには希望がある.ここしかない.ということで,できることはする.改めてそう考えた次第である.