日本の高校数学


 前に『解析基礎』を読んだ大学生からメールをもらったことがある.そのことは『解析基礎』に書いた.あの地震の直前だった.それでこういうものにも一定の意味があるとこちらも再認識.以来3年.増やしたいところや直したいところが出てきた.それで現行の『解析基礎』(第2版)を改訂して3版を作るために,1960年代,1990年代の高校の教科書と,2005年そして現行の教科書の解析,つまりは微積の部分を読みかえした.1965年(数研出版),1969年(実教出版),1997年(数研出版),2005年(数研出版),さらに2014年(数研出版)の数学の教科書である.これを見ると,この40年間,高校解析はつぎのような点が変わった.
教科書の変化
 1965,1969年の教科書は豊かな内容であり論理構成もしっかりしている.一方,2005年の教科書は色刷りだけれども内容ははるかに少ない.2014年版になってやや多くのことが書かれるようになったが,逆に混乱する内容も含んでいる.具体的には次のことが目につく.
1) 1969年には,数列の極限と無限級数まで数学IIBの範囲,つまり文理共通範囲であった.極限が数学IIBの微分法で必要な以上,数列およびその和の極限移行まで数学IIBに置くのは自然である.そして,面積の定義が,小正方形による内からの近似,およびその極限としてなされる.その上で区分求積による面積計算がなされ,それを踏まえてリーマン和によって定積分が定義される.その定義にもとづいて,定積分が原始関数の値の差と一致することが証明される.ここまでが数学IIBでなされていたのだ.
2) 平均値の定理について.1969年には「微分法」のなかで連続関数の最大最小値の存在を根拠に微分の定義から証明されていた.1997年はこれが「微分法の応用」の「発展」として扱われ,2005年にはついにこれが証明なしに「知られている」として扱われるようになり,平均値の定理の根拠が示されなくなった.
2014年版では,「発展」として,閉区間での連続関数が最大値,最小値をもつことを根拠に,ロルの定理を経て証明がなされる.さらにこの根拠は「実数の本質に基づくものであり」云々の記述があり,従来のものより改善されたといえる.これがこの教科書だけのことであるのかどうかは,点検しえていない.
3) 定積分の定義の変化.上述のように,1969年には数学IIBでも数学IIIでも,定積分微分とは独立にリーマン和で定義していた.その上で,この定義にもとづいて,定積分不定積分から計算できることを証明している.これは積分独自の発展を踏まえていた.
ところが1997年以降は定積分を原始関数の値の差で定義した.つまり,積分を,微分を前提として定義した.さらに原始関数の存在条件を明示的に示すことなく,面積の存在を原始関数存在の根拠として,定積分の定義に用いている.
数学IIで関数のグラフとx軸で囲まれる領域の面積を,x方向で微分するともとの関数になることが示される.しかしその議論の前提として,面積の存在を当然のこととしている.そのため,大学で測度を習ったとき,その意義を理解することができない.
 現行のものについては「新課程の数学II微積」に書いた.
実際に多くの制約の中で教科書をつくる困難は理解する.しかし,これは制作者の良心の問題である.教科書の変化は日本の科学教育の混乱と衰退を象徴している.この40年間,日本の高校での微分法・積分法は衰退し続けてきた.このようなことでは,ますます科学離れが進み,若者の考える力が衰えていく.せめて1960年代の教科書の立場に立ち返ることができなければならない.
人を育てること
 高校生に数学を教えてきて,つくづくと,教育は人そのものを育てることであると思う.一人一人を人間として育てる.一人一人の人間を開花させる.そうして現れた人間のさまざまな力は,けっして個人の持ち物ではない.どんな力も多くの人々に囲まれ育まれてはじめて開花する.であるから,育まれた自らの力を,育ててくれたこの世間に返さなければならない.少しでも世に循環させていってほしい.こうして人を育て,人に支えられる世でなければならない.
 これが最近とくに失われたように思われる.1970年代初頭,日本の教育は大きな転換をした.このころ中央教育審議会は「人的資源の開発」ということを言いはじめる.「人的資源」とは生産活動に必要な技術をもった労働力ということそのものである.人を人として育てる教育から,人を資源として使えるようにする教育への転換である.この能力を開発するのが教育だというわけである.教育を生産活動の一部とする考え方が表面化する.
 もとより近代の学校制度は,産業技術を習得した人間の育成を目的にしている.その時代の文明とそれを支える技術を習得することは,必然である.人間にとって何らかの生産につながることは,人間としての存在条件そのものである.だから仕事を求める人すべてに仕事を保障する.労働権を保障する.それは人間の尊厳を尊重するということだ.
 人間のためにある生産が,しかし逆転する.資本主義が世界大に行きわたり,とりわけ産業資本から金融資本が資本主義の中心部を占めるようになるにつれ,生産のための人間となり,いきつくところ,正面から人間は「資源」であるという主張が行われはじめたのだ.
 人的資源という観点からすれば,現実を批判するよりも,ひたすら従順に働く労働者のほうが都合がよいことになる.現実批判力より感性的理解による現状肯定の教育.この方向性はいまも変わっていない.数学の教科書の変転の背景である.
 しかし,人間は生産資源ではない.人そのものとして,まじめに働き,ものを大切にし,隣人同僚,生きとし生きるもの,たがいに助けあって生きてゆく.それが人間というものだ.経済は人間にとって目的ではない.あくまで方法である.そういう人間を育てなければならない.これが青空学園の立場である.
 現実にも,経済を第一とする世のあり方に対し,人間の協働の力で人間を第一とする世を求める人々の動きは,ますます深く広がっている.経済原理から人間原理へ,世界はいま大きな転換期の黎明期にある.
希望を次代に託す
 学問において,自分自身の理解と照らしあわせて学び,心の底からの納得を求める高校生は今もいる.数学的事実の根拠を問い,問題が解ける理由を考え,自分を大切にして志をもって生きてゆこうとする高校生や大学生は今もいる.そんな学生はむしろ増えているかも知れない.
高校数学の内容が歪んでいるのは微分積分の分野だけではない.感覚的な理解を主とし.根拠問わないという姿勢が全体を支配している.一方,昔も今も本当に何かを考えようとすれば,教科書を超えて学ばなければならない.これを書いたもう一つの意図は,みずから考える学生が,高校数学を対象化して見直し,そして次の段階に進む契機になればよい,ということである.
 解析学は,現実の量の解析にはじまり,微積計算の根拠を問うことで飛躍した.数学教育に携わる人びとは,根拠を問うことの大切さを知り,問題を学生に投げかえし,そのうえでそれに応えることができるようになってほしい.
 科学とはものごとの根拠を問うことである.根拠を問うとは,現象を根本において捉えることであり,その根本としたことさえ疑い,さらにその根本を求める永続運動,これが科学である.理系自然科学だけではなく,人文系諸学科でも同じことである.「すべてを疑え」(マルクス)である.科学精神の復興,これは青空学園の願いである.
 こうして,人を育て,育った人がまた世を支える.このような教育とそれを取りまく世の中や人間の関係を再建することは可能だと信じている.可能性があるということは歴史の要求ということであり,それは必ず現実化する.経済が自己目的化された歴史時代は,高々八百年にすぎない.経済から人間への転換期のはじまりの段階,それが歴史の現段階であり,その歴史のなかに本稿もまたある.

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以上のようなことを前書きに書く.その上で,高校生や高校教員が,現行の教科書に飽き足らず勉強したいと思ったときに役立つように,『解析基礎』を作っておきたいと考えている.