十三デモ

今日はTwitNoNukes大阪の関電前集会は十三デモと合流.関電前はなし.ということで大阪は淀川の北,十三の脱原発デモに参加してきた.昨年10月18日に同じ「原発いらん! 淀川-東淀川の会」主催のデモに参加した.そのときのことは「十三夜デモとIWJ」に書いた.その1ヶ月後に入院したので,デモはそれ以来.なんとか1時間を歩き通してきた.共産党大阪市会議員も3人ほど,そのうち2人はたすきがけできていたが,議論はしない.多くのさまざまの市民が,「原発やめろ! 安倍やめろ!」これだけのことを叫びながら大阪の下町をデモする.およそ100人のデモであった.
いつもの彼は,地元の東淀川の人.当然に来ていた.銅鑼をもって歩いていた.また2010年の秋から,司法糾弾,小沢支持のデモを一緒にやってきた大阪宣言の会の人も2人来ていた.旧知のもの初めてのもの一緒に歩いた.終わってから大阪宣言の会の2人と食事をしてきた.私の方は,最近は宣言の会の街宣にはいけてないので,食べながらいろいろこれからのことなど話しあった.
考えてみればいろんな人間の参加するこのデモも,この3人が一緒に食事をするのも,時代の産物である.地震の前からの知りあいは,何かずっと昔からの知りあいのような気がする.経済が第一の時代から人間が第一の時代への大きな転換期にあることを確認したが,私が100年は続くだろうといったら,そんなにかという.確かにその中の一コマとしての日本とアメリカの結末はもう少し早く現実化するだろうが.こんな対話も転換期の歴史のなかでのことであった.
いつの間にか7月である.7月4日に67歳になった.昔67歳はどんなに年寄りかと思っていたが,なってみるとなんということもない.若い.とはいえ,とっさになかなか言葉が出てこないなど,歳は感じるし,なんといっても昨年大病した.もういちどこのように十三デモで歩けるのは幸いなことなのだ.そう思いながらの脱原発デモであった.
話かわって,昔一緒に仕事をして今は独立して稲荷塾をやっている稲荷先生が参考書を書いたが原稿をみてほしいといわれるので会いに6月末に行った.そのときのことを彼がブログで書いている.いわく「数学オタク」だそうだ.読んで違うぞと思いかけたが,違うと言うのがオタクの典型だとも言うので,ある面はその通りと認める次第.それから700枚もの手書き原稿が送られてきた.読んでいると時間がいつの間にかずいぶんすぎている.合間にしか読めないよとは言ってあるが,それでも盆までには読み通す.
67歳になって,それと大病して,いろいろ考えるようになった.なにかことの奥行きが深くなったように感じる.青空学園の制作物の中で,こちらの独自性のあるもの,時代に要求に応えようとするものについては,もう少しは手を入れ残しておきたい.その思いは強くなった.それといろいろ仕事の方も重なり,結構忙しい.このブログの更新も余り定期的ではないが,書いて読むと客観的に見られて,考える材料になるという面もあり,自分のために続けたい.