京都の夏

追伸(同日夜):滋賀知事選挙で嘉田さんの後継候補が共産党の分裂策動を打ち破って当選した.「このままでは滋賀県も嘉田さんから再び自公の知事にその座を奪われるだろう.」と「六月下旬」に書いた.その一方でコメント欄で「このような分裂主義を押し流してしまう歴史の奔流への希望は失ってはいません.」とも書いた.この後者になったことは一歩の前進である.
昨日は私の年中行事となった京都相国寺での座禅会の日.在家居士の会である智勝会のOB座禅会.午後二時から四時半まで,読経,座禅,提唱と,僧堂で過ごしてきた.呼吸を整えただ坐る.「云々として」をすべて取り払った「ただ人間として」だけの時を過ごす.はじめて参加したのは2012年,そのときのことは「相国寺僧堂」に書いた.あのときはまったく遍歴放浪の末に僧堂に再開したという思いであった.昨年のことは「夏の京都の一日」に書いた.いずれも自分の歩いてきた道として大切であり,読みかえす.昨日は,夜神戸で授業があり,薬石という精進料理をいただく懇親会は参加できなかった.それは仕方がない.みなにあいさつして引きあげさせてもらった.写真は禅堂のある塔頭の入り口,向こうの山は比叡山か.その門を入ったところの玄関.ここから上がり,このずっと奥,渡り廊下の向こうに僧堂がある.このようして禅に参加すると,この建物も単なる寺の建物ではなく,こちらが現世であれこれ這いずり回っていても,それからは少し離れたところにじっと黙って建って,戻ってくるのを待っているという感じである.このような場をつくり伝えてきた人間ということを考えさせられる.
相国寺へ行く途中,昼少し前に阪急電車の烏丸四条駅で地上に出て祇園祭の鉾を見て回る.写真はほぼ組み上がった函谷鉾と組かけの菊水鉾.京都の町衆の長い歴史の営みである.今年から後祭りが復活.山鉾巡行は七月十七日と二十四日である.そういえば今年は,蛤御門の変で車輪などが焼け,これまで巡行には参加していなかった大船鉾が百五十年ぶりに復活.蛤御門の変が「前の戦争でこのあたりが焼けたとき」なのであるから,京都では歴史時間の感覚が違う.この大船鉾が二十四日に巡行に参加するそうである.
菊水鉾の隣の街中の食堂でハモの天ぷらを食べた.ハモは夏の京都に欠かせない.祇園祭はもとは祇園会でありそのもとは御霊祭であった.平安時代のあの貞観地震のころ,京都も天変地異や流行病が続いた.その鎮魂の祭としてはじまり,それから千年以上続いている.この祭の原点は今はほとんど忘れられているが,しかしまた街の記憶のどこかには残っている.その街の記憶に触れながら昼を過ごし,それから今出川まで地下鉄.同志社大学の学生食堂で一休みして相国寺へ行った.
それにしても京都の夏である.京都の観光は春と秋,観光客や修学旅行生は春と秋に京都に行くのだが,そしてそれはそれで美しいのだが,この時節の京都は表の顔.京都の素顔は夏と冬である.高温で多湿な気候のなかに逝きしもののたましいを見,慰め慰められる御霊会から送り火の時節.そして,底冷えのなかを透きとおった風が流れ,凜とした歴史の厳しさを教える真冬の時節.これが京都である.
私自身は,喜撰法師の歌「わが庵は都の巽しかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり」にある,京都の巽,南東の方向の宇治の生まれ.本家は茶業を営んできた.宇治の人間にとって京都は小さい頃から憧れの街.母親が京都近郊の農家の人であったことも,自分の,町衆からは少し離れたところから見る京都の見方に関係している.そして数年間の京都北白川での下宿生活.鹿ヶ谷や東山の麓から吉田山を歩きまわっていた.この北白川の農家の二階の下宿でようやくに自分を取り戻し,そして京都を出た.あれが他の町であったらどうなっていたかわからない.
京都は,そこにやってきて住むものに自立を促す.人間として考え独り立ちすることを促す.これが本当の都市である.このような都市としては,京都の他にパリがあることは知っている.生涯かけて京都とつきあってきたような気もする.それに感謝しつつ神戸に戻った.本当の京都の街の魅力というか街の力が気づかれず,また見失われつつあるように思うので,一言記した次第.