原発立地考

夕方,ヒグラシのかぼそい声が聞こえるときに夏の終わりを感じるが,今年の本州の夏は弱く,飢饉になるよう夏で,いつものような夏の終わりの風情がない.今年の夏は西表の四日間だけであった.そして時節はもう秋.夜は虫の声である.
『NONUKES voice』に,官邸前行動を主催している一人のミサワ・レッドウルフさんが,原発は「最後の縄文つぶし」と直感されたことが載っている.それに触発されて,原発立地について少し調べた.まず日本列島弧,琉球列島弧の歴史を概括する.こういう文を書いていても,先日訪れた西表の海と光の感覚を体が覚えていて,ふっと甦る.「長い長い東アジアの海の交流のうえに西表島の現在がある.大陸の黄河文明とは違う海の文明である.私自身が海の民の流れにあることも実感した」と書いたが,それはまた以下のような歴史のなかにあることを実感するということでもある.
■およそ7000〜3000年の昔,日本列島弧には現代日本語の基層となる言葉を母語とする文明が開けていた.大きくこれらの言葉を縄文語と言おう.この時代,東北地方は温暖であった.青森県三内丸山遺跡は今から約5500年前〜4000年前の縄文時代の集落跡である.八重山諸島沖縄本島でも6000年前の土器が発掘され,長期間にわたって定住生活が営まれていたことが知られている.この時代,沖縄本島八重山諸島の文明はそれぞれ東アジアの他の地域とつながって独自のものであったといわれている.
三内丸山遺跡の近年の発掘調査で,竪穴住居跡,大型竪穴住居跡,大人の墓,子供の墓,盛土,掘立柱建物跡,大型掘立柱建物跡,貯蔵穴,粘土採掘坑,捨て場,道路跡などが見つかった.膨大な量の縄文土器,石器,土偶,土・石の装身具,木器(掘り棒,袋状編み物,編布,漆器など),骨角器,他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土している.ヒョウタン,ゴボウ,マメなどの栽培植物が出土し,DNA分析によりクリの栽培が明らかになった.
縄文時代は多様な人の集まりが各地域に独自の生活を刻んでいたときである.生活は記憶されそこに一定の歴史が生まれていたかも知れない.日本列島弧に多様な,しかしまたモンゴロイドとしての共通性をもった,さまざまの言語と文化が存在し多くの交流があった.これは大きくは東アジアの文明の交流のうちにあった.長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され,日本の稲作もここが源流と見られる.縄文時代後期には,少なくとも陸稲が栽培されていた.
■そのような場において,弥生の文明が始まったのである.民族学博物館の研究によれば,弥生時代は紀元前900年代に始まる.それは以下の事実によって結論された.九州北部の弥生時代早期から弥生時代前期にかけての土器に付着していた炭化物などの年代を,AMS法による炭素14年代測定法によって計測したところ,紀元前約900〜800年ごろに集中する年代となった.考古学的に,同時期と考えられている遺跡の水田跡に付属する水路に打ち込まれていた木杭二点の年代もほぼ同じ年代を示した.そして,この時代に併行するとされる韓国の突帯文土器期と松菊里期の年代について整合する年代が得られた.
日本語学者・大野晋言語学的,人類学的研究によれば,この水田による稲作は鉄器と灌漑の技術をもったタミル人によってもたらされたのである.紀元前1500〜1000年,アーリア人カイバー峠を越えてインド大陸に進出した.インダス文明を築いたドラビダ人は,南方デカン高原へおされ,そのうちのあるものは海にのがれ,東南アジア地域に拡散した.あるものは日本列島と朝鮮半島南部にまで至った.またあるものは揚子江をさかのぼり,雲南地方にも至った.雲南のいくつかの民族の習俗で日本の習俗と似たものが多いのは,起源を同じくするからである.
現代の日本人女性のミトコンドリアDNAの解析から,起源場所が世界の九箇所で確認されており,九箇所の多くは中央アジア周辺に分布している.その内の一ヶ所だけ南インドにある.従ってやってきたタミル人は比較的少数であった.技術とそれに伴う言葉と世界観が,それまでの縄文の世界観と出会い,そして熟成し,在来の稲と人間の間に広がったのだ.タミル人が日本列島弧に入ってきたということは,韓半島南部にも入ったということであり,韓半島南部と九州北部,西日本は同一の文化圏が形成されたのである.
こうして,中国大陸からも南西諸島へ,そして壱岐隠岐対馬を経て,朝鮮半島南部や日本列島へ,幾重にも移住がおこなわれた.朝鮮半島南部は日本列島と同じくモンゴロイドの文明のうえにドラビダ系が入って長い時間を経ており,日本列島西部とは深い関係にあった.このように,日本列島弧,琉球列島弧の文明は,それぞれに東アジアの海の民の文明であった.
弥生時代がはじまり数百年の熟成を経た紀元前五世紀の頃,中国大陸は春秋戦国の動乱期であった.紀元前473年,長江流域にあった呉が滅んだ.その末裔やそれに率いられた人々のなかに,日本列島に移り住んだ集団があったことはまちがいない.そしてそれが,後になって九州の地に国を開いていった.それが「倭の国」である.その後,紀元前334年,越もまた滅んだ.彼らは丹後半島や出雲,越(現在の福井,石川,新潟県)地方に入ったといわれている.弥生文明とその契機が共通する海の民の呉や越の末裔がやってきて,新たな支配層を形成し,まつりごとをおこなう体制が生みだされていった.このように,日本列島弧,琉球列島弧は数千年の昔から多くの民族や文明が行き交い興亡をくりかえした来た.
■それからまた数百年のときが経った.この間には,秦の統一,前漢後漢の興亡があり,五胡十六国の激動の時代に入る.二〜六世紀にかけて,中国大陸の動乱にあわせて中国大陸,朝鮮半島から新たな支配者,天皇家の祖先に連なる人々,あるいは邪馬台国といわれる系統の人々が,この列島にいたり,大陸との深いつながりをもって小国家を形成した.中国大陸や朝鮮半島から亡命するようにやってきたものもあった.応神も仁徳も土着のものでない.
1990年代,中国との共同研究で,三燕の故地・遼寧省朝陽市の遺跡で発見された四〜五世紀の馬の甲冑や装飾馬具ととおなじものが,和歌山・大谷古墳や奈良・藤ノ木古墳で発見されている.遊牧騎馬民族鮮卑族・募容一族のあるもの,あるいは遼東半島に起源をもつ公孫氏一族のあるものが日本列島に来ていたことはまちがいない.これが天皇家の祖先を形成する.そして複雑で困難な時を経て,日本列島を武力統一し,列島中央部を支配したのが今日に続く天皇家の,祖先である.
このようにいわゆるヤマトの王権は,黄河文明に起源をもつ遊牧系の民族が日本列島の支配権を確立することで成立した.強大な武力をもったものが支配を広げていくにあたって用いた方法は一方における徹底した殺戮と平定であり,同時に「土着の習俗を取り込む」ということであった.この日本列島はもともと縄文文明が開けていた.そこに弥生人が外来し,長く並存しながら弥生の農耕文明が支配的になっていった.さらにその上に天皇家の祖先がやってきたのである.
外来の天皇家の祖先にまつろわなかったもの,それがまつろわぬ民であった.ヤマト政権はまつろわない民に対し,同化か滅亡かの非情な態度を一貫させた.今日台湾島では政権が公認する少数民族だけでも十四存在している.それに対し,日本政府が国際人権規約に基づく国際連合への報告書に同規約第27条に該当する少数民族として記載しているのはアイヌ民族のみである.ヤマト政権の同化政策は厳しかった.
■こうして成立したヤマト王権は,その支配権が確立した頃,日本列島に内発した王権であるとの虚構の下に,古代日本の様々の王権の歴史を簒奪し,日本書紀を書き出した.そしてそれと矛盾する多くの文書を焚書した.万世一系天皇家という虚構もまた,この過程で生みだされた.
そして,彼らは農業協働体が協同体の維持発展のために行われてきたさまざまの習俗を取り込み,あたかも天皇家がそれを代表するかのように振舞うことで支配の権威を打ち立てた.その典型は「すめらみこともち」として天皇を位置づけることであった.固有の言葉を神から受け取るものとしての天皇,である.そして新嘗祭である.当時の基幹の産業である農業の発展を願う人民の心を取り込むため,農業協働体のなかで行われてきた習俗を取り入れ,それを大嘗祭と結びつけることで,天皇が即位するにあたって正統性と権威づけを演じ出してきた.このような支配の虚構は天武天皇から天平時代に完成する.日本書紀編纂の過程がこの支配のあり方が仕上がっていく過程でもあった.
天皇家を中心とする貴族社会が支配権を失って以降も,その時々の支配者は「日本文化を体現するものとしての天皇」という虚構を支配のてこに深くかつ本質的に活用してきた.そしてそれは江戸時代末期に国学として復活,明治維新の思想的な原動力となり,明治国家から軍国主義日本を経て,それは,現在まで続いている.
敗戦処理の過程で,天皇とそれを担ぐ官僚は自ら責任を負うのではなく,臣下の軍人を戦犯として差し出し,沖縄を差し出し,国民の犠牲のうえに,自らはアメリカに命を乞うて皇統とそして官僚支配を守ろうとした.これが後に原子力村といわれる支配集団となる.アメリカに従属することを基本政策とする支配集団である.
原子力村が原発をつくってゆくとき,その立地は,調べられたかぎり,次のようにかつての天皇家にまつろわなかった人々やまた滅ばされた人々の故地である.
川内原発薩摩隼人の故地にあり,玄海原発は倭の国にある.島根原発は出雲である.スサノオによる八岐大蛇の退治として今に伝わる故事は,蛇をトーテムとする海の民のクニをスサノオが殲滅したということである.その出雲の民の故地に島根原発はある.そして,若狭の原発志賀原発柏崎原発は,越前,越中,越後と,越にある.越とは揚子江にあった越が滅んだ後,日本列島に流れ着いた人々の末であり,この地もまたヤマト王権によって滅ばされた人々の故地である.そして,青森県東通原発大間原発,そして六カ所村,ここはすべて縄文の文明がかつて栄えた一帯にある.
原発立地の現実は,意図的になされたのかどうかはわからないが,支配するものたちの遠い記憶が働いたことはまちがいない.これはたいへんに恐ろしいことであり,このようにみるならば,原発問題というのは,日本列島弧の五〇〇〇年にわたる歴史の基本構造に関わる問題であるのだ.東電核惨事は,その日本列島弧の歴史の結末なのである.まつろわなかったものたちの故地に原発を作り,事故後も情報を操作して真実を隠し,核汚染を世界にまき散らしながら誰一人責任を取らず,その地を見捨てる原子力村とその政府.この原子力村を存続させることは,人間と地球に対する冒涜である.日本列島弧に住むのものの責任においてこれを解体し,人類の叡智を集め,核惨事の事実を隠さず明らかにし,これに対する体制をつくらなければならない.そのために何が準備されねばならないのか.そして一人にできることは何であるのか.
『NONUKES voice』の編集後記に松岡さんが次のように書いておられる.その気持ち,身にしみてわかる.

私も還暦を過ぎた老境に在り孫もいる身,これから孫の世代に「なぜ,おじいちゃんは,あの時(つまり現在)頑張ってくれなかったの!?」と責められないように,微力でも私なりに(つまり生業である出版で)脱原発の声を挙げ続けようと思った次第です.