友を送る

 今日は定例の金曜行動の日であるが,40年来の友人のYさんが逝去,その通夜に出るため欠席する.昨日,京都で授業があり,着いてメールをチェックすると,元同僚のSさんから,Yさんが亡くなったらしいとのメール.家に伝え,妻が向こうの家をたずねてくれ,彼女と,われわれ夫婦もよく知っている次男君にあって顛末を聞いてきてくれた.一昨日家で一人で大いびきをかいて昏睡しているところを親戚が発見.病院に搬送したが,意識が戻らないままその夜になくなったとのことであった.
 私が26歳で教員になったとき,高校の地元では,中学のいわゆる障害生学級の卒業生を,地元の高校で受け入れてほしいという親の願いと親の会の運動が行われていた.私は生意気ではあったが,もうひとりのU先生と二人で,それに応えて高校で受け入れができるように職場にも提起し,市との交渉などそのためにいろいろ働いた.その結果,別枠での受け入れが認められ,教員も増員された.翌年4月,その増員枠で来てくれたのが同い年のYさんだった.1974年のことだ.それ以来,互いによく知っている教員・元教員夫婦どうしの家族ぐるみのつきあいであった.
 この10年ほどは,年に一度会うか会わないかであったが,今年は,一月六日に初参りのあと彼を訪ね,4人で久しぶりに話をして戻ってきた.春には,もう一人の元同僚が誘ってくれて,3人で夙川の花見,行きつけのところで食事をした.そしてこの十月二十日,私が治癒という診断を得て待合室に行くとYさんがいた.彼女の方が細菌性の腰痛で抗生物質の点滴中.それを待っているとのことで,治癒したことを伝えると,それは良かったと喜んでくれた.それがこの六日,脳出血で突然逝ってしまったのだ.市立病院で出会ったことが偶然とは思えない.あのときの笑顔が忘れられない.
 私どもの働いていた高校は,1980年代半ば,行革の流れのなかで廃校の方向が出され,2007年に廃校になった.私自身は,1987年にここを去り別の仕事についたのであるが,やめる年の二月に地元の研究会でそれまでの取り組みをYさんの協力でまとめたことがある.それが「A高校における障害者解放教育」である.この報告をしたときはもう職場を去ることを決めていたから,「これで思い残すことはない」と言ったらYさんは静かに笑っていた.そしてYさんは廃校まで働き続けた.何というか,まじめでいわゆる山っ気の全くない人であった.彼の存在が,われわれがかつてあのような取り組みをしていたことの証しであるという風であった.頸椎を少し痛めた後遺症で,退職後は杖をついて歩き,近年は2本の杖が必要.車の運転はできるが歩行はゆっくりゆっくりという具合であった.春にあったとき,このままでは寝たっきりなるよとか言いあっていたのであるが,誰にも迷惑をかけるかと,一人先に逝ってしまった.この四十年間のつきあいに心から感謝する.
 追伸:われわれ夫婦と仕事帰りの西宮にいる長男と3人で通夜にいってきた.子どもらも20年数年ぶりであった.こちらも20数年ぶりに元同僚たちとも顔をあわせてきた.そして彼にも対面し合掌してきた.それにしても,同じ地域に住んでいただけに,彼がいなくなったのは寂しい.
 追伸2(8日):今日は葬儀.そこで私がいちばんいろいろ教えられたUさんと再会.そのあと自宅に一緒に戻り,しばらく話した.障害生徒の高校受け入れを進めたのがUさんとであった.そしてYさんが加わり,3人でその後数年,まさに力をあわせて取り組んだ.私が教員を辞めるときもいちばん心配してくれた.その後いろいろあってもなんとかやってきたことを報告できた.これからも連絡取りあうことを約束した.Yさんが生きているうちにこういう時間を作るべきであった.それが悔やまれる.
 通夜、葬儀に多くの,障害のある卒業生が親たちと来てくれていた.どの子も顔をよく覚えている.とはいえ彼らももう50代だ.親がこの先、老いてゆくときどうするのか.日本の国は何もしてくれない.Uさんと,できることはしようと話しあった次第である.