新年早々

新年早々,フランスの週刊誌の編集会議が襲撃された.事件の経過は報道されている.「これは表現の自由に対する攻撃であり,断固このようなテロと闘う.」これがアメリカはじめフランス政府等,いわゆる先進国の態度である.
だがそれだけでいいのだろうか.人を踏みつけておいて,踏みつけている人間が踏みつけられている人間を揶揄するようなものである.表現の自由を口実にヘイトスピーチが許されることはないように,西欧社会がイスラムを蔑視し,その延長上にムハンマドを揶揄することが許されるのか.それは本来人間としてしてはならないことであったのではないのか.反イスラムが煽られるなかで,それにのったムハンマドの揶揄である.最初にデンマークの雑誌が掲載したときから,それはだめだろうと考えてきた.
と,ここまでは誰でも考える.しかしこの問題はもう少し奥がありそうである.昨年12月6日にはランソワ・オランド仏大統領がカザフスタンからの帰路,ロシアを突然訪問.プーチン大統領とモスクワの空港ビルで会談,年明け後には西側のロシアに対する「制裁」を辞めるべきだと語っていた.フランスではアメリカの好戦的な政策に対する批判が支配層の内部でも高まっている.フランスもまたアメリカに距離を置き始めていた.そこにこの襲撃事件である.そしてオランド首相はさっそくサルコジ元大統領と会見している.ということはアメリカと距離を置き始めたフランスに対し,それを押しとどめるために,誰かがどのような道筋でか,それはわからないが,この「事件」をつくり出したのではないか.襲撃犯はフランス北部の町のユダヤ人商店に立てこもり,人質もろとも殺された.実行犯を殺すのは口封じである.この事件をとおして利を得たのはイスラエルである.ネタニヤフはさっそく「仏からの移住歓迎=欧州の「反ユダヤ」受け呼び掛け」といっている.追伸:パリの集会にも先頭に参加している.
これを教訓にすれば,日本でも次のことがありうる.集団自衛権を発動して早く自衛隊を反イスラムの戦場に送れとアメリカは要求する.しかし国内の反対運動もまた大きく盛りあがり,政府はなかなか決断できない.膠着状態に陥る.これは実際そうなるだろう.そのとき,日本国内でイスラムによるとされる襲撃事件が起こる.国内世論は一気に自衛隊派兵に流れ,新聞もまた反イスラム戦争を賛美し,派兵反対の声はかき消される.これは大いにありうる.いやそのときに備えてすでに準備をはじめているものがいるかも知れない.そして私のこの意見は,逆の立場からそのときに備えるためである.このようなことまで考えさせる事件である.
そして昨日,新年早々,辺野古で初の逮捕者である.沖縄タイムス記事:辺野古新基地:初の逮捕者 警備員への暴行容疑琉球新報記事:「辺野古抗議で初の逮捕者 シュワブにミキサー車入る」.翁長知事が上京しても首相は会わない.農相も会わない.そして,沖縄振興予算の大幅削減である.政府が翁長知事に対してもっと融和的な態度と政策をとり,そのうえで辺野古新基地建設を進めようとするのかとも考えられたが,いまの安倍政権にその余裕はないのである.ここでもし辺野古新基地が挫折すれば,日米合同委員会のような組織を軸とする,日本の官僚と原子力村・安保村のいわゆる旧体制は,アメリカ軍の後ろ盾を失う.
だから,この問題はもはや間をとった妥協点はないのかも知れない.辺野古新基地中止,そのときは沖縄が日本から独立するか,あるいはまた日本がアメリカから独立するときかもしれない.これも新年早々であるが,翁長知事は「沖縄、カジノ誘致見送り「好調な観光に影響」」を打ち出した.賛成である.そして将来,米軍基地を撤去した後に,広大な自然公園を作ってゆく計画があるそうだ.いかに紆余曲折を経,時間がかかっても,いずれそのときは来る.私は,そのとき沖縄へいって,その公園の一角,ガジュマルの木の下で,海ぶどうミミガーを食べながら泡盛をいただく.これが夢である.平均寿命からしてそんなときが自分にあるとは思えないが,そういう夢をもたせてくれる.現地のことを思えばこんな夢を言うときではないのだが,米軍跡地を自然公園にという計画に触れての,初夢である.
これはCan蛙さんに教えてもらったのだが,内田樹さんの「年頭予言」は考えさせられる.私は「国破れて山河もなし」といってきた.この山河は,自然の山河である.そしてにもかかわらずそこから再起する途は,可能だと考えてきた.言葉が残るかぎり再生は不可能ではない.そのためになし得る備えをする,このように考えてきた.内田さんの「山河」は「日本の言語、学術、宗教、技芸、文学、芸能、商習慣、生活文化、さらに具体的には治安のよさや上下水道や交通や通信の安定的な運転やクラフトマンシップや接客サービスや・・・そういったものも含まれる。」といわれる.この点を注意して読めば,

でも、今のような調子ではリセットも、リプレイもできないだろう。/リプレイのためには、その上に立つべき「足場」が要る。/その足場のことを私は「山河」と呼んでいるのである。/せめて、「ゲームオーバー」の後にも、「リプレイ」できるだけのものを残しておきたい。

に深く共感する.厳しくも原則の問われる時代がやってきているのだ.写真は九日夕方,それこそ新年早々の虹.通り雨の後,西日を受けて.