京都の春の中で

一昨日から4日間は,午後3時過ぎから京都で授業をし,それから神戸に移動するというぐあい.それで昼一に西宮を出て京都に移動.そして小一時間は京都の街を歩くようにしている.阪急の四条河原町駅を出て,木屋町通りを高瀬川に沿って歩く.桜の花が咲き始めている.満開とはまた違う風情である.五条通りまできてから大橋を渡って鴨川べりを歩く.ここは日当たりもよく,桜もうほとんど花開いている.川には,いろんな鳥がいる.ゴイサギか,大きなサギも見える.じっと水面を見ている.
生き物がそれぞれに春がくることを喜び,今を生きている.私にとって,三月下旬のこの時期は何か懐かしい.むかし小学校二年生の頃から,京都は宇治の平等院裏の県神社と御旅所を結ぶ街道筋の三軒長屋に住んでいた.後には車が多くなったが,移り住んでからの数年はまだ落ち着いた街道であった.三月の日光が窓をとおして二階の畳を照す.街道を通る竹竿売りの声が静かに小春日和の明るさのなかを二階のまで届いてきていた.それをいつも思い起こす.三月下旬はまた,山麓の冬枯れの木立に北風を耐えた虫たちが,繭から出るときでもある.冬籠もりを終えて明るい日の光の中に出るときだ.
それで毎年この時期,京都の街を歩く.前にも書いたが,京都という街は私の身の一部という感じである.本当にこの街には世話になった.もしここで学生時代を送ったのでなかったら,あの当時,自分の生きてゆく基盤のようなものを見つけられたかどうかわからない.そういう気持ちもあるので,この街には感謝である.それは,結局はこの街に生きてきた人々への感謝である.そしてこれから後,何回くらいこの春の京都に浸るのだろう,という思いも浮かぶ.

   ねがわくば花の下にて春死なん この如月の望月のころ

西行もまた,この京都で青年時代を過ごし,京都を出て遍歴放浪した人である.京都の街の奥行きを作った人だった.このような京都の街.しかし今は核惨事の最中の時代である.西行の時代を思い起こしそれに浸るだけではすまされない.福島の春を思うと,ほんとうにいたたまれない.春に浸るだけでは,もうだめな時代に生きているのだ.京都の街を歩きながら,その思いが浮かんでくる.核惨事以降,春の見え方が違っている.
そんなことを考えていたら,ちょうど今朝,人民新聞社から『小出裕章さんインタビュー 原発に安全はないフクイチの現実』が届く.2011年3月15日のインタビューから2013年6月5日のものまで,都合11回にわたる,山田編集長と小出裕章さんとの対談録である.多くはネットでも読めるが,初期のものは探しにくい.人民新聞のサイトで検索すると,11回のうち初出がいくつか読める.パンフの見出しを順に並べる.
冷却して炉心を熔かさない(部分)/原子力発電は即刻やめても困らない(部分)/処理現場は困難が山積み/原子炉の安定的管理は不可能になった/福島原発放射能被害から子どもを守れ!海を守れ!/熔け落ちた核燃料の回収は絶対できない(部分)/何も変わらなかった日本と原子カムラ生き方そのものが問われている人間の手に負えない事故除染は移染「科学の進歩」
人民新聞社は「人民新聞について」で

全国・全世界各地での闘いや現状を、立場や党派を問わず様々な問題を、紙面を通じて多くの人々に紹介し、相互批判・議論の場を保障し創り出していくという、「大衆政治新聞」としての役割を果たすべく活動を続けています

[と言っているが,この小さな新聞で,これだけのインタビューを重ねてこられた小出さんに感謝する.またこれをおこなってきた山田編集長にも敬意を表したい.このような取り組みを私は支援する.最初のインタビューと最後のもので小出さんは言う.

 これで懲りないようなら、日本人はだめだと思います。
 人間が対処できるようなものではないものが来てしまうのですから、原発のようなものは作らず動かさないのが、当然の選択だ、と私は思います。

この言葉は,その通りであり,しかもとてつもなく重たい.この冊子を英訳して,世界に拡散したい.こちらのその力はない.誰かできないだろうか.小出さんもまた,京都で青年時代を過ごした人だ.現在の日本は,小出さんが想定した中で最悪の道を進んでいる.「最悪に備えて,最善をつくせ」とはこちらの言葉であり,小出さんもこの本の中のどこかで同じことを言われていたが,しかし,この日本国がその最悪の道を歩むとは.しかしまた,いちどは通らねばならないところを通っているようでもあり,これに対する新しい希望の芽もまた,出てきている.それについてはあと一日仕事をして,金曜行動の場でまた考えよう.
追伸:今日26日,少しの間,東寺に参ってきた.桜はつぼみが膨らんだところ.写真は東寺五重塔と,思わず手を合わせる観音石像.核惨事は,このようにやってきた日本列島弧の人間の営みの意義を,改めて考えさせる.