春の夜の関電前行動

 今日は定例の関電前行動の日.このようにして参加するようになって,もう三年になる.主催者は,関電社員も同じ労働者,彼らにも悩みがあり苦しみがあるだろう.だから,彼らを攻撃するのではなく,原発問題を,関電の関係者として,自分たちの問題として考えてほしい,この思いが伝わるように行動しようと考えている.彼らは敵ではないということを,主催者は合間合間に言う.私はこの考え方に賛成であり,それもあってこの抗議行動に参加し続けてきた.
 今日は少し他の用事もあり,早めに家を出た.歩いてすぐの空き地の柵の向こうでイノシシに出会った.昨年親子連れで歩いていたそのうちの一匹ではないか.もう親離れしたのだろうか.独りで雑草の根を掘りかえしていた.ここはもともとは社宅があった空き地.今は雑草が茂っている.ツクシが出始めているので,それを食べているのかも知れない.この空き地の上のところを道路も走っている.空き地からは道路を横切らなければ山に帰れない.どうしてここに来たのだろう.また山に帰れるだろうか.通りがかった婦人と立ち話をしながら,イノシシと目をあわす.フェンスで仕切られているので,こちらも警戒せずに写真を撮る.
 それから大阪に向かい,JRの大阪駅から堂島の関電本社前近くまで歩く.軽く食事をして,それから関電前へ.抗議行動をはじめる.この前の3.11のときほどは集まっていないが,それでも徐々に人も集まり,100人近かっただろうか.高浜原発再稼働の動きもあり,参加者は声をあわせる.ほんとうに再稼働するのか.京都の街が,万が一にも核汚染されたらどうなるのか.電気は足りているではないか.足りないのは,この思いやりの心ではないか.同じ春の景色を見ても,核惨事の後では見え方が変わった.その春の風情ががいかに危ういことの上にあるのか.なぜそのことを考えないのか.
 実際,小出さんが言われるように、この東電の引きおこした核惨事に懲りずに再稼働するのでは,「日本人はだめだと思います。」問題は,われわれがそれを許すのかどうかということである.人間の二つの生き方のせめぎ合いである.かつての民主党野田政権,そして今日の安倍自公政権.これらはみな,結局は一部のもののカネを第一とする政治であり,そのような世にしてゆこうとする政権である.
 これに対して,いろいろなところで,いろいろな形で,今年になってからとりわけ,新しい世の兆しが現れてきている.それをいろいろなところで確認する.これについてはまた稿を改めたいが,希望は失わない.とはいえ,われわれがまだまだ少数派であることもまたまちがいない.幻想はもたない.今は,目前の量を追い求めるときではなく,人間としての原則を大切にして,一人一人がそれなりの理念をもって,小さな人の輪を大切にして,やってゆくときであることもまた,まちがいない.人生,残りを考えるときになって,こちらも考えをもっと深めたいことがいろいろ出てきている.そんなことを考えながら,戻ってきた次第である.