こころざしを継いで

 今日は本来なら関電前抗議行動の日.しかし,これを主催するTwitNoNukes大阪の皆さんは「7/24は,スタッフ全員で東京・霞が関へ出張する予定であり,関電前抗議は呼びかけません.」とのこと.官邸前行動にみなで行った.
 こちらは,それについて東京まで行く時間も体力もなく,代わりに京都まで出向き,SEALDs KANSAI(自由と民主主義のための学生緊急行動:Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)の京都河原町交差点での街宣を見てきた.参加してきたというよりまさに見てきた.そして少し考えた.
 今日は祇園祭の後の祭り.それもあって京都の街はたいへんな混雑.そのなかで,多くの学生だけではなく,われわれの世代も四条河原町東南の角に集まってくる.学生がひとりひとり,なぜこの運動に立ちあがったのか,その思いを語る.それぞれに自分の言葉で語る.
 今日はちょうど鶴見俊輔さんの死が報じられた.学生のひとりも言っていたが,鶴見さんはベ平連京都をはじめた一人である.ベ平連京都のことを思い出さずにはいられなかった.当時,私は遅れてきた一人で,ベ平連京都のデモをしていたのは1971年秋から3年の秋までであった.それでも毎週毎週,10人程度のもので定例のデモをしていた.当時は,集会や何かをするときは,ビラ貼りをする.のりをもつもの,ビラを貼るもの,警官がいないか見張るものと分担し,河原町通りのポストや電柱にビラを貼っていった.73年に秋に働いて兵庫県にきてからも,1974年に岡崎の京都会館でのベ平連解散集会までつきあった.
 あのときから情報手段もずいぶん変化した.主張の内容も動いている.かつては「ベトナムに平和を」であり今は「戦争法反対」である.足もとの問題になっている.考えれば日本そのものは,この45年,前に進んだと言えるか.まったく言えない.教員になったころ,底辺の高校だったが,陰に隠れたいじめはなかったし,不登校の子もいなかった.問題はいよいよ切実であり,厳しくなっている.あの高校の子らが今なら正規採用されることは難しいが,あの頃はみなそれぞれ職に就けた.世の中本当に厳しく世知辛く変化してきた.
 ベ平連と今日の若者には共通点がある.それは自分の言葉で考え語るということである.いまはブログだのツイッターだのであり,昔はミニコミだった.当時私も一つミニコミを出していた.そして集会などでは人前で自分の言葉で語る.それをやりはじめたのがベ平連の運動だった.その地下水流がここに来て噴出しているように思われる.
 今日のような若者が主催する運動には希望がある.その言葉に新しい芽が出てきたのだ.2015年の夏,日本の安倍政権の進めるファシズム政策に対して,実に広範な抵抗運動が広がった.私は運動の内実としてのその言葉にも注目してきた.1999年からこれまでもう15年以上になるが,青空学園で次のようなことを思いのままに言ってきた.
 人間が人間であることを成立させている言葉,つまり人間の条件としての言葉,それが固有の言葉である.私の固有の言葉,それは日本語である.根のある運動,歴史を動かしうる運動は,固有の言葉で述べられねばならない.闘うものの考える力は,固有の言葉を耕さなければならない.
 日本は今,東大話法=官僚言葉に典型的に見られるように,ことわりの言葉の萎えた冷え冷えとした階級社会である.だがこれは歴史の産物であり,作られたものである.必ず打破できる.協働の営みのなかで,ものと言葉を大切にし,温かなつながりを生みだそう.隣人同僚,山河草木,助けあって生きよう.その場にこそ固有の言葉は育つ.日本語のことわりに根ざした思想を鍛え,新しい生き様を育てよう.
 いずれ根のある言葉で語る運動は必ず出現する.そのように確信しながらも,今生にそれと出会うことは難しいかとも思い,それなら次の世代に考えていることごとを書き置こうと,青空学園をやって来た.ところが,3.11以降の運動のなかで,言葉と人間の新しい関係に出会うことができた.最初のおどろきは,雑誌『NONUKES voice』の創刊号で,首都圏反原発連合のミサオ・レッドウルフさんが編集部との対談のなかで言った言葉であった.

――反原発運動に関わる何かきっかけみたいなのはあったんですか.
ミサオ 日本に戻ってイラストの仕事を始めましたけど,自分自身,それまでの人生の疲弊がたまっていて,都心を離れ湘南のほうに行ったんです.海の近くに住みたかったので.
ちょっとスピリチュアルな話なんですけど,そのころに,瞑想をちゃんと始めまして,ある時自分の先祖といいますか,二〇〇〇年,三〇〇〇年前のこの島の人たちの声が聞こえ,ビジョンが見えたんです
――祖先?
ミサオ 要は侵略された先住民の人たちですね.「みんな私の子どもなのに」っていう言葉が聞こえた.そこから次々と,どうやって日本が侵略されてきたかっていうのが見えてきた.
――瞑想中に.
ミサオ ここにぱーんと見えるわけですよ.夢じゃなくて.
――どんなふうに見えたんですか.
ミサオ 悲惨なことが多いですね.侵略者に殺されたりとか.
――その場合の侵略者というのは?
ミサオ いわゆる後の朝廷だとか,藤原だとかという類いの…….….
それで結局,原発が縄文の集落の所に建てられてるというのを,私,気付いたんですね.
六ヶ所の辺りも遺跡が多いですし,これは最後の縄文つぶしだという直感が来まして.だから私の中では,原発問題というのは,戦後とか明治維新以降だけではなく,二〇〇〇年,三〇〇〇年の侵略の過程の一番やばいピークに来てるなという認識なんです.
その先住民の声が聞こえた時,自分自身が救われて,ごちゃごちゃした雑念がさーっと落ちたんです.そこから自分は変わったんです.ああ,自分かやらないといけないことは,これだと.

 脱原発運動の中心にいる人を動かしているのが,縄文の祖先の言葉なのだ.このとき聞こえた祖先の言葉はどんな言葉であったのだろう.これはぜひミサオさんに聞きたいところであるが,その言葉が,この夏,運動の中から聞こえてきた.内容的に,祖先の声ともいうべき言葉が,七月十八日,朝日新聞大阪版に投稿として載った.

学生デモ 特攻の無念重ね涙  無職加藤数美(京都府86)
安保法案が衆院を通過し,耐えられない思いでいる.だが,学生さんたちが反対のデモを始めたと知った時,特攻隊を目指す元予科練(海軍飛行予料練習生)だった私は,うれしくて涙を流した.体の芯から燃える熱で,涙が湯になるようだった.
オーイ,特攻で死んでいった先輩,同輩たち.「今こそ俺たちは生き返ったぞ」とむせび泣きしながら叫んだ.
山口県防府の通信学校で,特攻機が敵艦に突っ込んでいく時の「突入信号音」を傍受し何度も聞いた.先輩予科練の最後の叫び.人間魚雷の「回天」特攻隊員となった予科練もいた.私もいずれ死ぬ覚悟だった.
天皇を神とする軍国で,貧しい思考力しかないままに,死ねと命じられて爆弾もろとも敵艦に突っ込んでいった特攻隊員たち.人生には心からの笑いがあり,友情と恋があふれ咲いていることすら知らず,五体爆裂し肉片となって恨み死にした.16歳,18歳,20歳…….
若かった我々が,生まれ変わって立ち並んでいるように感じた.学生さんたちに心から感謝する.今のあなた方のようにこそ,我々は生きていたかったのだ.

これこそが,ミサオさんの聞いた祖先の声ではないか.これを読んだSEALDsの青年は言う.

この記事を読んで,朝からボロ泣きした.これほどSEALDsやってよかったと思うことはない.

さらに,自由と平和のための京大有志の会は「勉強会や集会を通じて言葉を紡ぎ,京都から発信していきたいと思います.」と書き,実際にそれをおこなっている.その声明書は次のように言う.

戦争は,防衛を名目に始まる.
戦争は,兵器産業に富をもたらす.
戦争は,すぐに制御が効かなくなる.

戦争は,始めるよりも終えるほうが難しい.
戦争は,兵士だけでなく,老人や子どもにも災いをもたらす.
戦争は,人々の四肢だけでなく,心の中にも深い傷を負わせる.

精神は,操作の対象物ではない.
生命は,誰かの持ち駒ではない.

海は,基地に押しつぶされてはならない.
空は,戦闘機の爆音に消されてはならない.

血を流すことを貢献と考える普通の国よりは,
知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい.

学問は,戦争の武器ではない.
学問は,商売の道具ではない.
学問は,権力の下僕ではない.

生きる場所と考える自由を守り,創るために,
私たちはまず,思い上がった権力にくさびを打ちこまなくてはならない.

また次のような言葉もある.

私の『やめて』

くにと くにの けんかを せんそうと いいます

せんそうは 「ぼくが ころされないように さきに ころすんだ」
という だれかの いいわけで はじまります
せんそうは ひとごろしの どうぐを うる おみせを もうけさせます
せんそうは はじまると だれにも とめられません

せんそうは はじめるのは かんたんだけど おわるのは むずかしい
せんそうは へいたいさんも おとしよりも こどもも くるしめます
せんそうは てや あしを ちぎり こころも ひきさきます

わたしの こころは わたしのもの
だれかに あやつられたくない
わたしの いのちは わたしのもの
だれかの どうぐに なりたくない

うみが ひろいのは ひとをころす きちを つくるためじゃない
そらが たかいのは ひとをころす ひこうきが とぶためじゃない

げんこつで ひとを きずつけて えらそうに いばっているよりも
こころを はたらかせて きずつけられた ひとを はげましたい

がっこうで まなぶのは ひとごろしの どうぐを つくるためじゃない
がっこうで まなぶのは おかねもうけの ためじゃない
がっこうで まなぶのは だれかの いいなりに なるためじゃない

じぶんや みんなの いのちを だいじにして
いつも すきなことを かんがえたり おはなししたり したい
でも せんそうは それを じゃまするんだ

だから
せんそうを はじめようとする ひとたちに
わたしは おおきなこえで 「やめて」 というんだ

じゆうと へいわの ための きょうだい ゆうしの かい

 これは日本語としてもたいへん優れている.ようやくにこのような言葉が生まれてきた.鶴見先生もこのような言葉が出てくることを待っておられた.そのこころざし,その思いを継がねばならない.
 新しい根のある言葉の生まれる運動は不滅である.言葉の育つ運動は滅びない.今おこなわれている日本の反ファシズムの運動は,このような言葉の現れてくる内実をもつ.先人のこころざしを引き継ぎ,そして自らのこころざしを次に伝えることができる.運動は今,ようやくに新しい段階に入りつつある.などなど考えながら戻ってきた次第.