私は資源ではない,人間だ!

 昨夜は,京大西部講堂で行われた,自由と平和のための京大有志の会主催の,「安保法制」反対集会に行ってきた.西部講堂は,40年以上昔に映画『アルジェの闘い』を見たのが懐かしい.今も外観も内部も,その当時と何も変わらない.続々と人がやってくる.講堂の内部はパイプ椅子があるが数は多くない.床に座ったり,周りに立っての集会であった.集会はIWJさんがすべてを記録してくれている.それは自由と平和のための京大有志の会主催の,「安保法制」反対集会にある.ぜひそれぞれの発言を聞いてほしい.
 子育て中の大学院生で安保関連法案に反対するママの会の人が「自分の目で見て,自分での頭で考えて,表現しよう」ということを言い,あるいは,高校生,大学生が自分の言葉で語るのを聞いていて,またこの間のSEALDsの青年の語るのを聞いて,私はそれを「自分たちは資源ではない,兵器ではない.人間だ」という叫びと聞いた.この叫びには,深い歴史的意味がある.
 私が西部講堂で『アルジェの闘い』を観ていた七〇年代初めのころから,日本の教育は大きな転換をはじめていた.当時それは知らなかった.中央教育審議会は1970年代「人的資源の開発」ということを言いはじめる.「人的資源」とは生産活動に必要な労働力ということである.人を人として育てる教育から,人を資源として使えるようにする教育への転換である.この能力を開発するのが教育だというわけである.教育を生産活動の一部とする考え方が表面化する.
 ちなみに,私が働いた高校はいわゆる公立の底辺校であった.そのなかで地域のすべての子どもに高校教育を保障し,生きる力をつけようとやってきた.生徒も「わかる授業」を要求し,教員もそれに応えようとしてきた.しかし,このような高校をとりまく社会の変転の中で,ついに廃校になった.数学を教える技倆をつけてくれた職場であった.資源ではなく,一人一人のかけがえのない価値を重んじることを,その職場で教えられた.
 それに対して「人的資源」を導入するということは,人間を生産に従属した存在であるとして,企業活動を第一とするように社会の意識を変えてゆこうとするものであった.そしてそれは,一方での勤務評定反対闘争,一方での綴り方運動などに代表される戦後の「民主主義教育」が大きく否定されてゆくことであった.その後,いわゆる中曽根行革,小泉改革を経て,人間を資源とみる考え方が社会の支配的な考え方となってゆく.いわゆる新自由主義経済の思想であり,それは表面的には企業に都合のよい考え方である.
 しかし実はこれは,企業にとっても矛盾しているのである.つまり,これでは,本当に何ごとかを深く考え,新たな枠組を生みだすような人間は育たない.近年,日本の産業から創造が失われ,いくつかの分野では現実の衰退が起こっている.それは,人間を資源とみなす考え方が生みだしたものである.ここに,日本やアメリカの産業が創造性を失った根本原因がある.
 そして,安倍政治にいたって,経済的徴兵制が現実のものとなる.人間という資源を兵器とする,ということである.ことここに至って,若者が声をあげはじめた.「私は資源ではない,人間だ!」という叫びである.人間を否定しきったファシズムの動きに対し,そこから反転する運動が広がっていることを再確認できた集会であった.
 人間は資源ではない.人そのものとして,まじめに働き,ものを大切にし,隣人同僚,生きとし生けるもの,たがいに助けあって生きてゆく.ひとりひとりの力は個人のものではなく,互いのものである.人間のさまざまな力は,けっして個人の私物ではない.どんな力も多くの人々に囲まれ育まれてはじめて開花する.であるから,育まれた自らの力を,育ててくれたこの世間に返さなければならない.少しでも世に循環させてゆかなければならない.こうして人を育て,人に支えられる世でなければならない.それが人間というものだ.
 このような私の思想というか理念を,現実の世の動きのこととして語ることができるときが,自分の人生のうちにありうるとは考えていなかった.それだけに,なし得ることをするという責任もある.そんなことを考え,この戦後という時代の変転を考えた次第である.