再稼働反対神戸集会

 昨日は久しぶりに原発再稼働に反対する集会「大飯原発再稼働反対! 兵庫行動」に参加し,デモもしてきた.400人規模の集会だった.2012年から4年ばかり大阪関電本社前の金曜行動に,入院などしたとき以外はほぼ毎週参加してきたが,大阪でのそれが終わってからは,地元の活動が増えたこともあり,ときどきしか街頭に出ることはできなかった.昨日は時間が空いたので,神戸で行われた大飯原発の再稼働に反対する集会とデモにゆくことがで来た.
 集会は,1975年に結成された山形在住のフォークソンググループ,影法師の歌にはじまる.「花は咲けども」は考えさせられる歌だ.そして,原発賠償ひょうご訴訟原告で福島から避難している人の訴え.改めて福島の今,つまり東電核惨事の実相を教えられた.そして,いつもこういう集会でよく見かけてきた制服向上委員会の歌.それから,主催である,原発ゼロ!核兵器ゼロ!ゼロこねっとの代表の呼びかけ.若い人である.このグループは,神戸の関電前で,2012年から毎週金曜日,抗議集会を続け,もう250回以上になるが,今も続けている.そして,原発設置反対小浜市民の会事務局長の中島哲演さん.彼が言っていたが,関電から電気を買うことをやめた世帯が100万を超えている.これが200万,300万になれば関電はもう原発を動かせない.わが家もだいぶ前から関電をやめている.電気を供給するところは関電の他にもいろいろあり,電話一本で切りかえられる.
 いずれ南海トラフは動く.西宮市も最近はいろいろと防災訓練をしている.南の方は津波が来たときどうするかである.私の住んでいる山手の方は六甲山系の土砂災害である.地元の活断層阪神淡路の地震では動いていないので,今度南海トラフが動くと,動く可能性が高い.
 南海地震が起こるとき,薩摩隼人の故地にある川内原発,倭の国の故地にある玄海原発,そして浜岡原発が直撃される.列島の反対側にある,出雲の国の故地の島根原発とそして越前若狭の原発が,その地震のおこす揺れの打撃を受ける.島根や若狭は活断層が幾つもあり,それらが動く可能性も高い.
 若狭に10基以上ある原発がどれか打撃を受けると,琵琶湖が汚染される.琵琶湖から流れる故郷の宇治川が核汚染にさらされる.琵琶湖の鮒寿司が食べられなくなる.まさかそんなことと思うことなかれ.これが福島の現実である.
 戦後の日本政府は,隷属するアメリカの核戦略に従いそのもとで,核兵器の製造能力を担保するために,核力による発電所を全国に展開してきた.地震列島に核力発電所を作ることの危険性は従来からも指摘されてきた.にもかかわらず,東京電力は経済を優先し,万一の場合のためのできうる対策さえしていなかった.福島第一発電所の事故はそのうえで起こったことであり,自然災害を引き金にしたとはいえ,それはまさに人災であり,予測されたことに対する対策さえ怠ったという意味において,犯罪である.
 しかし,さらにそれが惨事であるのは,日本政府や東京電力が核汚染の現実を公にすることなく隠し,本来なら放射線管理区域として厳格な管理のもとにおかれねばならない汚染地域に,人をそのまま住わせていることである.また避難のために移住する権利さえも保障されていない.このような情報隠し,情報操作によって,避けうる被曝が逆に拡大する.これがまさに今広がっている.この意味でこれは三重の人災,二重の犯罪である.
 集会の発言を聞き,改めてこのようなことを確認した.集会の場所は元町南の波止場町緑地.もう海の近くである.そこからデモに移り,海岸通りを東に三宮,北に上がって鉄道高架の床の道沿いに今度は西に向かい元町まで歩いた.
 「日本神道の本当の姿――国家神道の虚偽」と題するこちらの一文が載った,ロゴス社の雑誌
フラタニティー11月号」がとどいた.日本列島に暮らすものの長い歴史のなかで形づくられた,生き方,考え方を日本神道として取り出し,それと対比して,今日の政治を主導する日本会議神社本庁が回帰しようとする国家神道がいかに虚偽のものであり,日本神道とは真逆のものであることを立証した.字数の制限で,その根拠となる日本語の基層からの読み取りは,必要最小限であるが,そのゆえにかえって読みやすくもなっている.
 その結論として,今日の問題に即して日本神道の教えることを次のようにまとめた.これは前にも「日本神道(二)」に書いたのであるが,若干校訂されているので再掲する.
 第一に,人は,たがいに人としての尊厳を認めあい,敬い,いたわりあえ.人のさまざまな力は,けっして私のものではない.世に還してゆかねばならない.人を育て,人に支えられる世を生みださねばならない.今日の日本は,人を金儲けの資源としている.これは神道に背く.
 第二に,言葉を慈しめ.人は言葉によって力をあわせて生きてきた.言葉は仕組みをもつ.新たな言葉は,その仕組に根ざして定義されねば意味が定まらない.近代日本の言葉の多くはこの根をもたない.これでは若者の考える力が育たず,学問の根は浅く,人を動かす力も弱い.もういちど近代日本語を見直せ.
 第三に,ものはみな共生しなければならない.いのちあるものは,互いを敬い大切にしなければならない.里山と社寺叢林とそしてそこに生きるものたちを大切にせよ.無言で立つ木々のことを聴け.金儲けを第一に動かすかぎり原発はかならずいのちを侵す.すべからく運転を停止し,後の処理に知恵を絞れ.
 第四に,ものをみな循環させよ.使い捨て拡大しなければ存続し得ない現代の資本主義は終焉する.人にとって経済は,人として生きるための方法であって,目的ではない.人が人として互いに敬い協働する.人といのちの共生のためにこそ,経済はある.経済が第一のいまの世を,人が第一の世に転換せよ.
 第五に,たがいの神道を尊重し,認めあって共生せよ.神のことを聴き,そして話しあえば途はひらける.国家は方法であって目的ではない.戦争をしてはならない.戦争はいのちと日々の暮らしを破壊する.まして戦争で儲けてはならない.専守防衛戦争放棄,これをかたく守れ.
 昨日あの集会に来ていた人たちの発言を聞いていて,この人らには私が言うことがそのまま生きていると思った.そして,こちらが知るよりはるかに切実な現実をふまえながら発言されていることに,強く心を動かされた.福島の地の,人が帰れなくなったそぞれの里にあった地蔵様の祠やあるいは小さな神社の社は今どうなっているのか.今の日本の為政者や東電幹部には,福島原発核惨事で周りの環境や多くの生き物,そして人々を損ね大きな傷手を負わせてしまったという,畏れの気持ちがまったくない.神を懼れぬ彼らは,いずれ大きな神の怒りに直面するだろう.しかし,このような政治を許しているわれわれもまた,神の怒りに対面しなければならない.つくづくとそう考えさせられる集会であった.