誇りを持って(?)自己責任

 昨日は定例の梅田解放区の日で,参加してきた.皆で声をあげながら,交代で語る.道の向かい側にもプラカードを掲げて並ぶ.反戦タイガースの人も語り歌も歌う.阪神タイガースの応援歌を替え歌にして語り,最後は「ハーンセン・ターガース」と締めるのである.うまいものである.
 また若い人が,一つの調子で歌いながら語る.トランペットが2つ,その語りにあわせる.なるほど街頭でこういうふうにやるのかと,感心しながら,こちらは横断幕をもつことに徹する.

 幾人かが,日本では安田純平さんへをたたく言葉にあふれていることをアベ政治への批判とあわせて語っていた.たたく言説の根拠は「自己責任論」である.それに対して安田さん自身が「紛争地のような場所に行く以上は自己責任であると考えている」「自分の身に起きたことは、はっきり言って自業自得だと考えている」と言っている.
 この言葉をどのように受けとめるか.私は,戦場ジャーナリストを自らの仕事としたことに対する確信と誇りからの言葉であると思う.自分への「自己責任論」にもとずくさまざまの批判を逆手にとって,自らの信念を語り,そして,アベ政治に煽られた批判を笑い飛ばしているように思った.違うかも知れないが,私の受け止め方である.

 ではなぜ今のアベ政治は,「自己責任論」を振りかざすのか.そしてまたその方向に世論を誘導しようとするのか.なぜこの間,さまざまのところで「自己責任論」がまき散らかされるようになったのか.

 「自己責任論」はそれ以前からもあったが,東電核惨事以降それがひどくまた大きくなった.福島はいまも原子力災害非常事態宣言が発令されたままである.それを根拠として,年間20ミリシーベルトまでが容認されている.放射能から子どもを守る企業と市民のネットワークにもあるように,先日,国連人権理事会 子どもや出産年齢の女性は、年間1ミリシーベルトを超える地域への帰還停止を日本政府に要請した.

 これに対して日本政府は,ここにもあるように,「子どもたちに限らず、避難指示が解除されても帰還が強制されることはなく」と反論している.
 言いかえると,日本政府は,「避難は自由であるが、国は何の保障も補助もしない.すべて自己責任でやれ.」ということである.
 それどころか,年間1ミリシーベルトを超える地域に住み続けることさえ,自己責任だということになる.実際は,ここにもあるように, 「20ミリシーベルト以下は安全」という「国家による殺人」そのものである

 なぜ日本政府は安田さんたたきを煽るのか.大手の報道機関もそれに同調するのか.その理由がここにある.福島のこの核汚染問題について,国民を保護する責任が国家や政府にあることに,目が向けられることを,恐れているからである.

 これが日本の現在である.今年は明治維新から百五十年の節目の年であるが,このときに,アベ政治もまたゆきつくところまでゆきついた.アベ政治とは安倍晋三個人の問題ではない.日本の近代は,うわべのだけの根なし草の近代であった.その行きついたなれの果として現れたものがアベ政治である.
 そして,今の日本は,アベ政治に連なる人でなし達が,あらゆることを差配し,ものもこころもまったく貧しい状況にある.私自身、日本がここまで来るとは思いもしなかった.

 しかしまた,今年は,人々がアベ政治を終わらせるために立ちあがったときでもある.梅田でやっていると,「壊憲をゆるさない」というカードをもった数人が通りかかった.いま集会をやってきたと手を振っていた.
 そして,このような街頭での歌と踊りと語りは,少しは道ゆく若者の心にも届いたかも知れない.こんなことを考え,『神道新論』での自著についての言葉を書き加えた.私にとって,路上は本当にいろいろ考えるところだ.