今年最初の梅田解放区

昨夜は定例の梅田解放区の集まりがあった.本当に寒かったが,20人近い人が集まり,街ゆく人に呼びかけ,トランペットが2つ,小太鼓1つで歌い,声をあわせる.土曜の夜の梅田界隈は,多くの人が行きかう.福井で反原発の運動を続けている人が,地震列島で次に地震があればどうなるのか.街ゆく皆さん,それを考えてほしい,と語っていた.立ち止まる人,写真を撮ってゆく人などもいるが,過半はそのまま通り過ぎてゆく.それでも声は届いている.
梅田に行くのに阪急電車に乗ったが,車内放送で「体の不自由な方など見かけられましたら,…などお声かけをお願いします」と,それも録音音声でしょっちゅう流す.聞くに堪えない.人が人を助けるのに何も阪急に言われることはない,放っておいてくれと思う.阪急電車は,その放送がどんなに偽善的で,聞くものを不快にしているかさえ分っていないのだ.
官僚の書いた作文を読むアベ首相の国会答弁などもこの偽善の典型だ.やっていることと読んでいる内容がまったく逆である.おまけに読み間違いがよくあるのでここまで落ちているかと思う.今の世を写して,このような偽善的な言葉が日本中にあふれている.彼らの使う偽善言葉の典型は福島地震の後に出てきた「絆」で、あの頃からひどくなった.もし,彼らが本音で語れば,辞任した松本文明内閣府副大臣のように「それで何人死んだんだ」となる.その本音を,偽善の言葉で覆いかくしている.これが今の世の有様である.
それに対して昨日語っていた人は,それぞれ自分の言葉で語る.こんな世のあり方にこれではいけないと思うものどうし,あるいはまた生きづらさをかかえるものどうし,心をこめて語りあい,そして言ったことには責任をとろう.大きく世が動く時代こそ,そういう言葉でつながろう.こちらは写真を撮ったとき以外は,横断幕をもっていて喋らなかったが,人の語るのを聞いていて,このように考えた.
定例的な街頭行動は,2012年から2015年まで毎週関電前に行っていたのが思い出される.あれは自分にとってもいろいろ意義深いことであった.昨日は朝一で『神道新論』の初校ゲラも届き,その校正もはじめなければならず,問題づくりの原稿仕事も締め切りに追われてはいるのであるが,街頭に立って考えることが,自分にとって大切なので,いってきた.そうしてよかった.そして明日からまた二年生の授業や三年生の直前講習であり,役所などとの交渉ごとも入りそうであるが,これからも他の予定と重ならないときはこの梅田解放区の取り組みに参加したい.できるうちだという思いもある.
最近,市との交渉ごとがいくつかある.市は地域から,下から政策を組むということをなかなかしない.こちらの意図を汲まないことも多々ある.しかし考えてみれば,アベ政治が上から下まで行きわたっている今日,各市町村も行政とはそういうものであるかもしれない.そういう全体状況も個別の積みあげであるから,できることはしておきたい.また,不登校の子の居場所づくりで学校の対応を聞いて思うのは,とりわけ公立中学のことであるが,学校というものがかつてのような,いろいろな子らがそれぞれに居場所をもてるところではなくなっていると言うことだ.そして,学校の教師自身が,そのことが見えないまでに,今の世の偽善におかされていると言うことだ.近代日本の結末は,福島の核惨事だけではない.日本中にその惨事を見ることができる.
これを革めるときは必ず来る.しかし,それがいつかはわからない.それだけに,ひとつの遺言としての『神道新論』は残しておきたい.いまは編集者がくれた貴重な提言を一つ一つ吟味して校正を確定している段階である.また,2月16日には,数学の方でも研究会で少し喋るが,討議をふまえてその後まとめる講究録は,高校数学の方面での遺言になるだろう.今年前半,この二つはしっかりとやっておきたい.