夜明け前にて

 昨日は,アベ政治を終わらせようとする全国の統一行動の日であった.大阪での行動である,おおさか総がかり集会実行委員会主催の「9条改憲NO!森友疑惑徹底追及!安倍内閣は総辞職を! 4.14おおさか総がかり 緊急集会&市民パレード」の大阪うつぼ公園の集会とその後のデモに参加し,そしてそのあと梅田に戻って梅田解放区の集まりと足を運んできた.今ここで街に出て声をあげなければならないという思いで,全国で多くの行動が取り組まれた.
 午後の1時から地元の寄りあいがあり,それから大阪に移動.あわてていて降りる駅を間違え,うつぼ公園に着いたときはデモの先頭が出始めたときであった.そのデモに加わり歩きはじめる.近くの人に集会の規模のことを聞くと,約2000人参集と主催者がいっていたとのこと.それから小雨の降るなか,難波まで行進する.若い人のリズムのある声と動きに乗せられて歩く感じであった.この日の集会とデモは,年寄りから若い人までアベ政治に反対する大阪のほとんどの組織が参加していた.梅田解放区の取り組みで出会う人らにもデモで一緒になる.難波の元町中公園で流れ解散.
 豊中市議の木村さん,もと社民党衆議院議員の服部さんの顔も見える.それぞれ集会で話しておられたようだ.かつて小沢さんの問題で一緒にデモをしていた何人かにも会う.5年前に作った「安倍退陣」の大きな幟にも久しぶりに出会い,持つのを手伝い,行進の半分くらいはこれを掲げていた.ここでこの幟がこんなに今のテーマになるとは,作ったときは思ってもいなかった.
 それから梅田に戻る.戻るとさっきまで難波にいた彼らがもう梅田で声をあげている.それに加わる.こちらはトランペットを吹き続ける人がいる.それを背景に,こちらもすこし喋る.
 アベ政治は日本の隅々までむしばんでいる.今年から小学校で,来年から中学校で,教科としての道徳の授業がはじまる.再来年からは高校の「現代社会」が廃止され,代わって「公共」が必修になる.「基本的人権の保障」や「平和主義」が高校の授業からなくなる.改定のときに文科省は「いじめの防止」も理由の一つにあげた.しかし,道徳を教科とすることで,いじめや不登校など学校のかかえる問題は,よけいにひどくなる.ますます不登校は増え,陰湿ないじめがはびこる.
 歴史上いちばん反・道徳のアベ政権が道徳を教科にした.学校は社会の縮図なのだ.道徳の時間にハイハイと答え,成績もいい生徒が,休み時間に誰かをいじっている.まわりもそれをはやす.まさにアベがやってきたことだ.こういうことがより日常化する.
 近代日本の教育は,なぜそんなことが言えるのかと根拠を問うことを教えず,言われたことをそのまま受け入れる人を作ってきた.原発が安全だといわれればそのまま受け入れる.その根拠を問い自分で考えれば,それが虚偽だとわかるのに,である.道徳の教科化はこの方向をいっそうおしすすめる.嘘と欺瞞と私利私欲のアベ政治を終わらせなければ,小学校も中学校もますます荒廃する.
 こちらは,こんなことを喋ってきた.土曜の夕方である.多くの若者が前を歩いて行く.彼らはどのように聞いてくれただろうか.それでも,御堂筋をデモした2000人のなかには,若い人が多かった.新しい感性でデモをする,戦争法反対のデモのころから,声をあげ行動する若者が出てきたことはまちがいない.私は拙著『神道新論』の中頃の節で

東京電力福島第一発電所の引きおこした核惨事は、かつての十五年戦争の敗北につぐ近代日本の第二の敗北である。二つの敗北は、明治維新に始まる日本近代の帰結であり、ここに帰趨する道程には,近代日本に内在する基本的な問題が通底している。

と書いた.その内容をもっと深めなければならないと考えてきたが,その基本的な問題の一つが日本の政治と官僚制の関係のあり方である.その負の側面がアベ政治で一気に現れた.そして終わりの節で

人を金儲けの資源としか見ず格差を拡大し、政治はうわべの官僚言葉を駆使して責任をとらず、福島の現実を覆いかくして原発を再稼働し、アメリカに従属して言われるままに貢ぎ続け、再び兵器産業で利潤を得ようとする。これがいまの世の姿である。

とも書いた.これもまたアベ政治として具体的にわれわれの前に現れている.このような形で現れるとは,まったくなんということか.そして,このアベ政治は,このような地平にまで至った日本近代を実際に動かしてきた官僚体制を,その内実において崩壊させた.アベ政治は単に安倍の特異性のゆえに現れたのではない.このことをおさえなければ,人を変えても同じことが続く.官僚機構の再生はまったくたいへんな問題でなる.また私は拙著の最後に,

 いまなお、世は夜明け前である。しかしまた、近代日本を痛恨をもってふりかえるわれわれは、新しい世の扉を開けうる位置に立っている。実にいまは、帝国アメリカが崩壊し、経済の時代から人の時代へ向かう一大転換期にある。この扉を開くための基礎作業、それが近代日本語をその根底から定義し直す再定義の試みである。/かつて人々は、神道のもとに、循環する共生の世を生きてきた。これを現代において見直し取りもどそう。こうして、閉塞した現代日本の旧体制をうち破ろう。うち破る力は、旧来の左右の分岐を乗りこえた新しい人の台頭、これである。そして、国家を超えてたがいの固有性を尊重しあう普遍の場を生み出そう。/島崎藤村『夜明け前』はいま、これらのことをひとりひとりに問いかけている。この問いかけに応えてゆこうではないか。

と書いた.確かにこの日のデモや東京での様子を見ると,少し時代の戸が開き始めている.しかしそれは同時にまた,困難な時代のはじまりでもあることを思わざるを得ない.何よりこれを一つの政治勢力にまとめてゆく核が弱すぎる.自分もできることはしたいとは思うが道は遠い.デモで御堂筋を歩きながら,拙著の自分の言葉を思い起こし点検し,こんなことを考えてきた次第である.街に出ての行動はほんとうにいろいろ考えさせられる.自分にとって街頭行動の意味は,いちばんここにあるような気もする.右の写真は裏に咲いた射干の花.昔,小学校の裏山の竹藪の日だまりに咲いていたのを今も覚えている.