安倍やめろ! そして

 昨夜は定例の梅田解放区の日であった.時間がとれたので参加する.歌って踊って喋っては若い人に任せて,こちらはもっぱら横断幕をもつ.しばらくすると,地元の自治会活動で知りあい,その後アスベスト問題や,最近では人民新聞山田編集長の公判などでも顔をみかけ,自宅への駅も同じである人が,通りがかった.こちらは思わずポールの維持を両横の人にたのんでポールの手を離して飛び出し,あいさつした.彼も驚いていた.彼は,昨年の6月に地元の「九条の会」でこちらが喋ったとき,司会をしていた.そのときのことは「六月五日に」に書いている.家に戻ってからその彼にメールしたら,今朝返信が来ていた.

おはようございます。昨日は、驚きと感動でした。普段は、あの場所ではつまらないイベントばかりを目にするものですから、「安倍はやめろ!」は、本当に良かったです。

 彼はしばらく一緒に声をあわせていってくれた.こうして街頭に立てば,人との出会いがあり,また知りあいどうしでも,まだ知らなかった一面を知りあい,関係が深まる.この日はまた,通りががりの若者が自分でマイクをとって「安倍やめろ」をしばらく声を出していってくれた.同じように立ち止まり,最後まで見ている人もいた.こうして,20人+α人での行動となった.このような街頭での直接行動を通した関係の深化は,いずれどこかで力になるだろう.それを思わせることであった.
数年間,毎週金曜日に関電前に通っていたときも思ったのだが,街頭は私にとっての教室である.筆と紙とそしてパソコンで考えることを中断して,街頭に立つ.すると思わぬところから新しい考えが浮かんでくる.時間のあるときには夕方犬を連れて1時間ほど歩くことにしているが,これもまた同じような働きをする.足が動いてくれるうちは街頭に出て,そして地元でも歩く.
 一昨日8日の夜は杉村さんと食事をしていろいろ話しあった.6月23〜24日,龍谷大の大宮で開かれるインターナショナル・カルチュラル・タイフーン2018のことをうかがった.詳しい内容は学会のカルチュラル・タイフーン2018の開催のお知らせにある.23日だけでも行って,それから梅田に来るつもりである.ただ,この「お知らせ」文の日本語とその背後にある思想に対し,私は次のように考えている.
 1)ここにある言葉は,根のある日本語ではない.言語帝国主義に圧倒された奴隷の言葉である.2)西洋現代思想が提起することを,非西洋の日本で受けとめる意味と意義がわかっていない.3)このようなエセ知識人の言葉を乗りこえ,現代が直面する課題に根のある言葉で向きあえ.4)その試みのみが,次の時代をひらき,また逆に西洋の知に課題を提起することになる.
 このような取り組みは,資本主義が閉塞するという状況の中で,次の段階の人と世の有り様を考えるという,大きな枠組でくくれるものであるが,西洋の知識人はどれだけ非西洋の問題を我がこととしてとらえているのだろうか.そしてその問題は,西洋自身へも提起されることであり,そうしてはじめてほんとうの新しい普遍性が生まれるのではないか.それをわれわれが考えねばならないと言うと,それはお前が書いて提起しろと言われた.確かに,問題を言うだけではいけない.こちらがその次を考え文字にしなければならない.そのための基礎作業が『神道新論』であった.その意味で自分の課題としてそれはわかっているのだが,難しい.
 そして,もう一つ話したのは,イギリス労働党のコービンやアメリカのサンダースのような,既成左派の中からそれをうち破るような人が、日本にはいないのか,である.いればいろいろ応援するのだが,という問題であった.彼も,知りあいの社民党の人にそこから脱皮して,という話しを何回もしたようだが,そうならない.既成左派にそんな人はいない,とのこと.こちらにもいない.もう一つ下の世代が出てくるまで,まだまだ地道にやることが必要なようだ.このようなことを考えた週末であった.
追伸:6月10日,今日は日曜日で,朝から公園の掃除.雨かと思っていたら曇り空.そして夕方は1日だけの授業が神戸であった.その前に本屋に立ち寄り『図書新聞』3355号と『週間金曜日』1187号を買う.『図書新聞』は特集:「動く朝鮮半島,動かぬ日本」で,1面から金時鐘さんの『背中の地図 金時鐘詩集』によせたインタビュー.金時鐘さんはかつて湊川高校の教員.1970年前後,湊川高校,尼崎工業高校,そして私のいた市立芦屋高校などが,いわゆる解放教育運動の拠点であった.金時鐘さんもそのころから知っている.本紙での語りはいろいろ考えさせられるものであった.また『週間金曜日』は「韓国・民主主義の底力」である.いずれもが,韓国の文在寅政権を生み出し,今も前に進み続けている韓国の運動を,提起するものである.
 私は8日「西洋の知識人はどれだけ非西洋の問題を我がこととしてとらえているのだろうか」といったのだが,ではわれわれは「どれだけ韓国やアジア諸国の運動を我がこととしてとらえているのか」という問いを自らに問わねばならない.この2紙はそのことを問うている.さらにまた,われわれは「どれだけ日本語の伝える智慧我がこととしてとらえているのか」という問いにいたる.時間をかけて読み込み,考えたい.そしてここに,われわれのなすべきことと課題とそしてゆくべき方向の示唆があると考えている.