食の安全を売ったアベ やめろ

 25日,地元の市民館で午後2時から4時まで、「食の安全、大丈夫ですか」という学習会があった.主催したのは,日本共産党甲陽園後援会で,講師は「国民の食料健康を守る運動全国連絡会議」の兵庫県の柳澤尚さん.長く神戸税関で外国から入ってくる農作物や食糧品,化学品が適切な手続きを済ませて,国内に引き取られているかをチェックする通関業務に携わってきて10数年前に定年退職された人である.

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  自給率の危機と押し寄せる食品汚染
  食料のアメリカ依存では食卓の安全は守れない
  米国多国籍企業に食も農も明け渡す種子法の廃止
  多発する災害に備えて,農林・水産業の再生を
  貿易自由化に伴う感染症の広がり
 これらについて詳しく話された.現在国会審議中であるが,先だってアベがトランプのいいなりに受け入れたアメリカとの貿易協定が,いかに食の安全をアメリカに売ることであるかということである.まさに,いわゆる新自由主義,言いかえれば,資本論理むき出しの世界大の政治と経済が,日本の農業,漁業や食の安全を食い尽くそうとしている.戦後の日本は国際金融資本の金融植民地であったが,アベ政治の下で農漁業もまた国際種子資本や農業資本の植民地となった.
 これらの国際資本による日本の食い尽くしという問題を指摘しているのは共産党山本太郎のところだけである.いちばん心配なのは小学校や中学校の給食だ.そこで使われているパンや食材がどのようなものであるのか.何を食べさせているのだと親が立ちあがらねばならないが,この問題は若い親には十分には認識されていない.そこがこれからの課題である.

 講演を聴きながらつくずく思ったことは,日本という非西洋で最初に近代化したこの国は,今没落の道をひた走っているということである.いちどは堕ちるところまで落ちないとだめなのかも知れない.日本においてはこの没落の底からの再起は,明治維新以上の激動である.
 それは世界大でいえば,世界の各地の激動と軌を一にする,資本主義の終焉期の激動の一つとならざるを得ない.実際,リーマンショック以上の世界的な金融危機は不可避である.大きな経済恐慌が起こることはまちがいない.そしてそれぞれの地で次の段階への闘いが続くようになる.そういう時代が来る.話を聞きながら,このように思った.

 そして26日は定例の梅田解放区.いくともうTさんもきていた.参加者が増えた.20人以上になる.それで,道路をはさんで両側で歌い喋る.いつものように,私は喋らずにただ立ってプラカードを持つ.

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 ここ東梅田の線路下はほんとうに人が多い.道の向こうでもこのように横断幕を掲げる.道ゆく若者はどのように聞いているのだろうか.それでも,手を振ったり一緒に並んで写真を撮ったり,いろいろ反応が出てきているのもおもしろい.世の酷さがそれだけ深まり,いよいよ自分の問題になってきたという若者が多くなったのかも知れない.

 さて,10月15日付の『人民新聞』1696号で杉村さんが拙著への書評を書いてくれた.この書評はいろいろ考えることを提起してくれていて,勉強になった.それで,これに対する返礼の手紙を『人民新聞』に寄稿した.10月25日付の1697号に掲載.それに対して杉村さんから「どうぞこの線でさらに思索を深化されることを期待しています」とメールをいただいた.考えれば大きな課題をいただいたのだ.
 大きな枠組をはっきりさせるため,まず前にいちど読んでいる『未来への大分岐』の再読をはじめた.読み終えて,自著は,この資本主義がおしつける偽りの普遍性に抗い,その奥にあるものを指し示すものであることをあらためて思った.これから杉村さんが翻訳したいくつかのフランスやイタリアの思想家のものを読みたい.
 このような問題は普遍的に提起される.しかし,現実には固有性をもって現出する.その固有性の場での把握と問題の解きほぐしが不可欠である.そして,拙著をもとに,ここから現代の課題にむきあい,これらの西欧の現代思想とさらに大きくむすびつつ深い普遍の場を拓いてゆかねばならない.そのための基礎的準備が拙著であったが,それをふまえて,次の課題をまずはっきりとつかまねばならない.

 27日日曜日、鹿砦社から,鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』(『紙の爆弾』2019年11月号増刊)が献本として届く.いろいろ知らないことも多くあり面白かった.京都をはじめとする学生運動の歴史を残すために大切な仕事だ.
 同時に思ったことは、それがあの時代の闘争のすべてではないということだ.私は1973年の秋から芦屋の市立高校に来たのだが,あの当時は定時制高校での闘いや部落解放運動,それと連携した解法教育運動が地域で取り組まれていた.それは68年の世界的な学生青年運動が地方に広がっていったともいえるし,京都を出た学生が改めて草の根からの解放運動にであったともいえる.
 私はそこで学んだことがそれからの人生の基礎である.このようなそれぞれの地方の闘いもまた取りあげ残せないものかと思う.