没落するこのクニに生きる

 昨夜は定例の梅田解放区であった.何かの事故で電車が遅れ,梅田に着いたのは5時半過ぎ.急いで行くともう始まっていた.二〇名近くが集まり,いつものように道ゆく人らに語りかける.
 スガ政治を変えなければ明日はないと訴える.そして,森元首相の差別発言の背景とスガ政権の悪政への批判.また,都構想は否定されたにもかかわらず同じ内容を進める維新の府民騙しへの怒りの訴え.それから,慰安婦問題での韓国裁判とこの問題での日本政府の対応について語る.また,辺野古現地の闘いに参加している人からの訴えと続く.こうして次々に若い人らが訴える.
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 また中年後半の反戦タイガースさんも,いつものようにドラムをたたき道ゆく人に呼びかける.そしてこちらは横断幕をもつのを手伝う.

 昨今の日本政治の状況を見ていると,これまでいろいろと書き置いてきたことごとが,現実の問題として立ち現れてきている.二年前,季刊『日本主義』の終刊号に「分水嶺にある近代日本」を寄稿し,そこで次のように書いた.

 二〇一九年にはじまる日本の分岐は、もはや何を選択するかという選択の内容や方向をめぐる分岐ではない。人民の内部について言えば,能動的に選択するのか、それとも無自覚に流されてゆくのかの分岐である。
 能動的に選択しようとする側にも、当然にさまざまの立場と意見の違いがある。しかしその内部では、思想信条の自由にもとづき、互いを認めあって議論を行い、そのうえで当面する政治課題においては行動を統一する。このことが、目的意識をもって追究される。アベ政治を終わらせるという課題で一致するものは、副次的な違いをひとまず横に置いて、行動で統一しなければならない。
 その意味で、この分岐は、選択しようとする民主主義か、流されゆく全体主義かの分岐である。政治的には、この全体主義を廃し民主主義を実現するのか、これをそのまま続けさせるのか、この分岐である。
 日本列島のこの国はいま歴史の分水嶺に立っている。

 これを書いてから二年,まさに今,現実の日本は,歴史の分水嶺を越えて崩れていっている.二年前には,ここまで酷い現実がこれほど早く露わになるとは考えなかった.
 しかし,コロナ渦は事態の進展をおしすすめ,日本の没落が可視化されてきた.この日本の没落の意味は大変に深い.最近次のような記事を見つけた.「日刊ゲンダイ」(2021/02/06 06:00号).この記事の最後に次のように書かれている.

 台湾高速鉄道商戦の敗北から垣間見えるのは政治の無為無策、いまだにジャパン・アズ・ナンバーワンを捨てられず自らの技術を過信する傲慢、そして輸出相手先・競合相手を理解しない独善……日出ずる国の黄昏は深まり。黄昏の先に待つ暗闇からは一条の曙光すら見えてこない。

  ここにあるのは技術の問題だけのことではない.まさに,この日本というところは,このままでは一条の光もない.私は,「根のある変革への試論」のPDF版 に次のように書いた.

 このアベ政治、スガ政治は安倍や菅個人の問題なのではなく、資本主義の終焉期という普遍的な場において、根なし草の近代日本百五十年の成れの果てとして現れたものである。
 このままでは、たとえ安倍や菅個人が除けられ別のもに変わっても同じことが繰り返される。アベ政治、スガ政治から日本近代を省みるとともに、その教訓の上にこれからの方向を考え、動かねばならない。

  根が浅く,抵抗の歴史もほとんどない,この近代日本がそのゆえに没落してゆく.根なし草近代の成れの果てとしてのアベ・スガ政治,そして森発言である.これは近代日本の世に,社会的な規範が基底の構造として機能していない、その結果である.そしてそれは,日本の近代が根なし草であることに起因する.
 根なし草近代のこのクニはかぎりなく没落する.具体的なことは省くが,没落を示す事例は,日々の報道の中に幾つも見出すことができる.

 没落するクニに生きることは,得がたい経験である.近代の世は発展を基調にしてきた.その行きついたところからの没落,これが今の日本であり,まだ他にはない.
 これもこれまでも言ってきたことだが,とことん没落したところからしか,その先の途は見えない.没落の果てにおいて,明治からの日本近代をとらえ直し,世のあり方を根底から変えてゆくこと,それが歴史の要求である.青空学園日本語科は,そのときのための基礎作業としてやってきた.
 それはまた,資本主義の終焉の果てに,次の時代を見通すことともつながる.この資本主義の後の世を「緑の社会主義」と言う.これについて,そしてそこに至る途についてはまだまだのべることはできていない.これからのべてゆくつもりで、今その構想を練っている.頭の働くうちに,これだけは仕上げて書き残したい.
 この問題の日本における現実が,アベスガ政治の果ての没落である.われわれは今,没落しつつある近代の世を生きているのだ.そのことをつくづくと思う.没落の過程での闘いは続く.この闘いのみが没落の果てからの途をひらく.

 オリンピックについても騒々しいが,これについてはすでに書いている.「1%による1%のための大会」.あれを書いてからもう七年半なのだ.時間の経つのははやい.そこにも書いたように,近代オリンピックはその歴史的役割を終えている.しかし,利権がらみであるがゆえに,利権をもつ側からオリンピックをやめるとは言わない.
 それでも現実に開催は不可能である.スガは責任をとらされ使い捨てられるだろう.しかし放置すればその後にはスガ以上のファシズムが現れる.
 そのときどれだけ人民が動くのか.全体主義に流されることにどれだけの抵抗ができるか.われわれもまた問われる一年となる.