無為無策のスガはやめろ

 昨夜は定例の梅田解放区であった.およそ20人が集まり,若い人らがそれぞれ思いを語る.梅田解放区がはじまって4年,私が参加しはじめて3年半ほどになるが,梅田で「アベやめろ.アベ政治に殺される」と訴えてきた.
 スガ政治になって,このコロナ渦と政治の無策で,「殺される」が大げさではない状況になってきた.「コロナ対策 何にもしないスガはやめろ」と声をあわせる. f:id:nankai:20210425100449j:plain     
 ミナミで働く人が訴える.自粛を求めるが補償はしない.これが今の日本政府だ.コロナ渦は今という時代に人類に襲いかかるものだ.だから,営業時間を自粛して短くせよというのなら,その分を公的に補償しろ.緊急事態など国も大阪も責任逃れに言っているだけだ.
 補償しないどころかむしろ,日本の支配層は老人を減らし零細経営を淘汰するため,コロナ渦を利用しているのではないかと考えねばならないほどである.また,大阪の医療崩壊は,保健所を減らし病院を縮小してきた維新政治の結果である.皆これについても多く語る.
 しかし、これらを許してきたのは,人民がこれに対して闘わなかったからである.明治維新も戦後改革も,人民の下からの蜂起でなされたものではなかった.日本においては改革はいつも上から与えられたものであった.これは歴史的事実である.
 その成れの果てが今日の状況である.このどん詰まりのここで行動しなければ,この日本はこれから先かぎりなく没落し衰退してゆく.人民もまたかぎりなく収奪され没落される.あらゆる場でそれが言える.

 近代日本は根なし草で,根のある規範がない世であった.人を人として尊重しない世が続いてきた.アベ・スガ政治はその成れの果てに現れたものである.この問題をもういちどはじめから考えようと,本棚から古い本を取り出す.
 岡潔小林秀雄対談『人間の建設』,岡潔日本のこころ』である.私はこれを高校時代に読んだ.本棚からそれを取り出し久しぶりに読んだ.そのなかの「六十年後の日本」という一文のなかに次の一節があった.

 六十年後には日本に極寒の季節が訪れることは、今となっては避けられないであろう。教育はそれに備えて、歳寒にして顕れるといわれている松柏のような人を育てるのを主眼にしなくてはならないだろう。この寒さに耐え技くことができさえすれば、一陽来復も期し得られるかもしれないが、私は、人力だけでここが乗り切れるものだろうかと思っている。
  ………………
 道は断崖に極まっていることを知ったから,どれくらい深いかとのぞき込んでみたのだが,谷底は知るよしもなかったのである。もし転落し始めたら,今度こそ国の滅亡が待つばかりであろう。

  この本が出たのは1967年であるから「六十年後」とは2027年である.まさに日本の衰退が極まるときではないか.岡潔がこの本を著したのは,やはり数学がフランスと日本でどのような位置にあるのかということを通して,近代日本には文化の根がないことを体感していたからだと思う.
 地球は有限である.拡大しなければ存続しえない資本主義は終焉する.今その段階に至っている.そして次はどうなるのか.経済が拡大する段階での赤い社会主義から,拡大しえない段階の緑の社会主義を現実にしてゆく営みが,次を拓いてゆく.新しい人のつながりが生みだす世、である.
 近代日本の歴史で、今それが問われている.

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 私はこんなことを考えながら,毎日1時間,犬を連れて歩く.夙川から満池谷墓地の方へまわる道,満池谷墓地からニテコ池をまわる道,満池谷墓地を東に抜けて廣田神社や上ヶ原の方をまわる道などいくつかの道があり,今日はどの道を歩こうかと歩きはじめてまずそれを決め,歩く.この時期でも背中に汗をかく.

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 写真はニテコ池と甲山の眺め,この池の畔にある名次神社,名次山は万葉集にも出てくる小山である.ニテコ池の西側に写っている.歩くことは,体にいいだけではなく,心にも良い.歩いていると,頭の上の方から,何とも懐かしい感情が降りてくる.