阪神淡路大震災から29年

 今日は1995年1月17日の 阪神淡路大震災 から29年である.神戸新聞が「震災29年」としていろいろな記事を集めている.これを読むと本当に痛切な気持ちになる.
 今日の午後は,犬を連れて, 震災記念碑公園 までいってきた.満池谷墓地の南の入口のその東側にあるこの公園には,西宮市で亡くなった人の名を刻んだ犠牲者追悼之碑がある.
 多くの花が置かれていた. 

 満池谷墓地とその周辺のことは8年ほど前に「満池谷墓地」として書いている.


 地震の日のことはよく覚えている.家は大きく揺れたが,西宮市街の北の山の麓を少し南に降りたところで,自宅周辺の建物の被害はほとんどなかった.越木岩神社の巨岩も動かなかった.
 しかし阪急甲陽線の苦楽園口から南の方では,夙川と線路をはさんで反対側の集合住宅が倒壊したり,戸建の家が倒壊したりしていた.
 かつて担任していた 市立芦屋高校 の卒業生が一人,また別の卒業生のお母さんが一人,亡くなった.
 電話は繋がっていて,宇治の妹が電話してきてくれたのも覚えている.また,先日会った義妹夫婦が,道路が使えるようなってから,西播の山崎町与位から車で来てくれたのも覚えている.
 阪急の神戸線もしばらくは不通で,当時教えていた加古川の教室へは,高架道路が倒れている横をバスで三ノ宮まで行ってそこから電車で通った.大阪へ出るときは,西宮北口まで歩いたことも覚えている.

 この29年,日本列島では地震が続いた.そして,元旦の能登半島地震である.
 日本列島はこれだけ地震が起こる.列島に生きるものは,この自然の条件に従う生き方をしなければならない.
 しかし,現実は違う.能登半島では数年前から地震が続いてきたのに,そのための対策がとられていたとは言い難い.「石川県「能登でM8.1」試算を知りながら防災計画は「M7.0」想定 知事は「震災少ない」と企業誘致に熱」というような記事を読むと,それがよくわかる.
 また,日本列島には依然多くの原発がある.志賀原発はちょうど止めているときであったが,今回の地震による被害の全容は明らかにされていない.もし稼働していたらどうなっていたのかも,公にされていない.
 さらに,新潟市内では液状化現象が確認された.柏崎市内も液状化現象が見られた.今回の地震柏崎刈羽原発がどうなっているのかも,公にされていない.
 能登半島原発を作る計画もあった.住民の反対で作られなかったが,もしあれが作られいたらどうなっていたのかと考える.

 今回の地震は,近代日本はこれまでのままでいいのか,と問う.そのように受けとめなければならない.
 考えてみれば,青空学園数学科 は1999年の夏からであるから,阪神・淡路の地震を受けて,書き置くことの大切さを思い,始めたものであったかも知れない.そして,青空学園そのものを考えることも含めて,2003年の秋に「転換期の論考」を始め,それをひきついで,この 青空学園だより を始めた.それから21年近くになる.
 しかしここで考えていることはまだまだ底が浅い.歴史が求めることに応えられていない.それを痛感する.2024年,少しでも前に進めたらと思う.