教育数学

最近,ここでときどき教育数学という言葉を用いる.教育数学の素材を残しているのだ,と自分がやっていることを意味づけている.この言葉をはじめて聞いたのは今年の2月だった.そのことは人に会う(続)に書いた.そのときもらった『教師に必要な数学能力に関する研究』を読みかえした.「教師に必要な数学能力に関する研究」でネット検索するといくつか上がってくる.関心のある人は見てほしい.
それぞれの論文で「教育数学」に関していくつかの定義が試みられている.「数学教育とは,出来上がった数学(カリキュラム)をどう教えるかを問題にするものであり,教育数学は教育の諸々の諸相から実際に数学者がかかわることの出来る部分を取り出す営為である」というのが,この共同研究の主宰者の定義である.そして別の論文の中では「数学教師に必要な能力とは,数学を教育的観点から捉えることのできる能力である」とされる.このような研究がさらにひろく展開されることを願っている.
その上で私は「数学教育の根幹にはわかる喜びの継承がなければならない」と考える.高校生に数学を教えることを生業としてきたが,授業というのはわかる喜びを体験する場なのだということが,経験を通しての確信である.生徒が自ら問題を正しくつかみ,自分で考え「わかって,にっこり」する.それが「学問としての高校数学」である.「理解はできるが,納得できない」段階からの飛躍である.その指導に数学教育の難しさと醍醐味がある.
しかしそれを可能にする前提として,教えるもの自らわかる喜びを経験していなければならない.教育数学とは,先ず何より教育に携わるものがその数学そのものを苦労して学び,それを通して「わかった」という経験を積むことができるものでなければならない.「わかった」という経験のないものが数学を教えるなら,生徒たちがわかる喜びを経験するように指導することは難しい.「わかる喜びの継承」は文化である.授業を通してわかる喜びを次代に伝える,ここに数学教育の根幹がある.
教育数学とは,わかる喜びの継承を根幹とする数学教育において,それに携わる者自身がそれを研究することをとおして自らわかる喜びを経験する場,としての数学である.とすれば,今やっている射影幾何の学習は,筆者の「わかった」という場であり,それ自身が教育数学として整備されるべき素材の一環であると言える.少なくとも自分でそう言えるものを目指したい.
ヤコビによる楕円積分を用いたポンスレの定理の証明は神秘的だ.いくつか文献があり,古本も手配したので,これも再構成してみよう.写真はサギ.よく見かける.コサギよりは大きく,薄い青灰色.何というサギなのだろう.