鮒寿司考

nankai2012-02-23

 塾の京都教室の帰りはいつも決まった店で食べて帰る.もう10年になるかと思う.京都駅前交差点の北東角東へ2軒目の店だ.この界隈は京都駅が新しくなって以降大きく様変わりしたが,この店はそれより前から続いている.
 その店長が,趣味で鮒寿司を作っている友人がいて数匹もらったがいらないか,と聞いてくれたので,先週薄切りにしておいてくれるようにたのみ,昨日受け取ってきた.子持ちの30cm近い大きなニゴロ鮒である.八割り方を冷凍にし,残りを少しずつ食べる.三年ものである.この味はほんとうに深い.鮒寿司は琵琶湖の特産で淡水魚の鮒のなれ寿司である.酸味が強いのだが,この酸味に川面の香りが交わって,えもいわれぬ深い味わいがする.去年の暮れに京都の錦市場で買った二年ものより実費で1.5倍だが,量と質をあわせて価値は3倍近いと思う.この酸味とにおいで食べられないという人もいるようだが,私は逆である.
 こんなに川魚のなれ寿司が好きなのは,故郷の宇治川の思い出とつながるからだ.小学校に上がる前後の数年,裏が宇治川という所に住んだ.夏の夜など川面を通る風には何ともいえない香りがした.あの川面の香りは住んでみないとわからない.鮒寿司はあの頃の記憶につながる深い味わいがする.昭和二八年の台風で床上まで水が来てその後引っ越したのだが,この時期の川との交感は今も体が覚えている.私は故郷のある人間だ.故郷は,そう,体で覚えておくものなのだ.死ねば,親や親戚縁者が眠りまた宇治にゆかりの山本宣治が眠る小学校の裏山の墓地に還る.それだけだ.人間それでいいのである.
 故郷のある人間は,また故郷を奪われることの意味を理解することが出来る.近年を見ても,アフガニスタンでもイラクでもこうして故郷をもつ人間がながく暮らしてきたはずだ.それぞれに異なる思い出を体で覚えて暮らしてきたはずだ.アメリカがそれを破壊した.また戦後沖縄ではアメリカが土地を強制収容して基地を拡げ,多くの人が故郷を奪われた.帝国は故郷を奪い人間を根こぎにする.これに対する最後の拠り所としての定義集なのだが,どこまでやれるのだろう.
 故郷をもつもの,故郷を奪われて奪われた故郷を思うもの,それぞれがそれを大切にしながら,もっと深くつながることは出来ないのか.ありもしない普遍主義を建前に故郷を奪うものに対して,もっと深くつながって闘う道はないのか.甘い思いではあるが,こんな事を考えさせる.つくづく食は文化であると思う.縦軸に来し方を振り返り行く末を思わせ,横軸に世界に思いを馳せさせるような味わいを見いだすとき,それはうまいのだ.今宵,鮒寿司で一杯やりながらそんなことを考えた次第である.