3.11の日に

 昨日は,朝から京都造形芸術大に行く.妻の姉,私と同い年の義姉の卒業制作展を見るためである.この人は60歳の時交通事故にあったが,一命を取りとめ,リハビリを経て日常生活が出来るようになり,それから京都造形芸術大通信課程の日本画科に入学,卒業となったのである.
 みごとな日本画であった.あの絵を描くのにどれくらいかかったのか聞くと2年弱であると言う.私が,『神道新論』を書くのにもそれくらいかかった.思えば私も4年前,5週間入院する大病をした.生死の境から生還して生き延びたのだから,やり残したことをしようという思いは同じであったも知れない.妻が大学院も行ったらというと,もう行くことにしているとのことであったそうだ.
 皆で昼を食べ,それから別れて私は円山公園音楽堂へ向かった.
バイバイ原発3.11きょうと」の集会に参加した.2500人の人で円山音楽堂はいっぱいであった.ちょうど行ったとき,福島県浪江町から関西に避難している人が「この集会に参加してそれで満足しないでください.政府と東電に責任をとらせ,原発をなくすために,明日からどうしてゆくのか.それを考えてほしい」という趣旨の発言の最中であった.
 戦後の歴代政府は,アメリカの核戦略に従いそのもとで,核兵器の製造能力を担保するために核力による発電所地震列島に展開してきた.そしてその運営を各電力会社におこなわせた.核政策における基本政策の誤り,ここに東電核惨事の基本原因がある.このゆえに,それは人災である.
 そして,地震列島に核力発電所を作ることの危険性は従来からも指摘されてきた.にもかかわらず東京電力は経済を優先し,あのときは柏崎原発の事故の後であり,やろうとすれば出来る万一の場合のための対策さえしていなかった.福島第一発電所の事故はそのうえで起こったことであり,自然災害を引き金にしたとはいえ,それはまさに人災であり,予測されたことに対する対策さえ怠ったという意味において,犯罪である.
 しかし,さらにそれが惨事であるのは,日本政府や東京電力が核汚染の現実を公にすることなく隠し,本来なら放射線管理区域として厳格な管理のもとにおかれねばならない汚染地域に,人をそのまま住わせていることである.また,避難のために移住する権利さえも保障されていない.このような情報隠し,情報操作によって,避けうる被曝が逆に拡大する.これがまさにいま広がっている.この意味でこれは三重の人災,二重の犯罪である.
集会宣言にも,「奪われた暮らし・健康・環境・地域社会を国と東電に償わせよう」が冒頭にあった.しかし,為政者はこれを教訓とするどころか,逆にいわゆるショックドクトリンとして,もういちど戦争への道を歩んでいる.かつてこの核惨事をテコに,当時の民主党政権を追放してアベが権力をにぎり,そして今に至っている.この日の集会はこれに対抗する一つの基盤であろうと思った.
 デモにも少し参加した.使い捨て時代を考える会槌田劭さんも,もう82歳ほどでおありだが元気に参加しておられた.あいさつしたが,こちらは帽子をかぶっており誰かわかってくれたかどうかはわからない.槌田さんとは1973年の秋の頃,もう一人理学部共闘会議の議長していた笈田さんと3人で,その後「使い捨て時代を考える会」となってゆく新しい運動の名前は何が良いだろうかと話しあったことがある.その後間もなく私は兵庫県で教員となり,笈田さんも故郷の福井に戻ったので,この運動はなにも手伝えなかったが,そんなこともあった.その後,3.11の後,彼がハンストをされているときに再会した.
 途中でデモから離れ,尼崎は塚口にいった.人民新聞編集長の山田さんの釈放祝いを隣近所の人や知りあいとするのでと誘われたのである.詳しくは書けないがいろんな人が来ていた.そのうちの一人の一文の載った編集書をもらったり,20日に出るこちらの本のことを話したり,ひとときを過ごして戻ってきた.