年のはじめ

 三日から授業もあり,仕事は始まっている.そしてこの間,問題づくりに気持ちの多くがいっていた.たくさんの問題づくりの仕事をかかえていて,まだまだとっかかりしかできていない.
 そして地元自治会の諸々もやってゆかねばならない.昨日火曜日は午前中市役所で市民局の人に会う用事があった.夜は京都で仕事なので,いちど戻って出直すのも面倒だと,そのまま京都に向かった.
 そして,南区吉祥院吉祥院天満宮と東寺に参ってきた.吉祥院は母の実家のあったところ.その昔風の農家は,今はもう工場になっていてなくなっているが,従兄弟が同じ吉祥院,近くに住んでもいる.南区のこのあたりは京都の近郊の住宅街であるが,昔は京野菜や米を作る農家が多く,いまも畑はあちこちに残っていて,時節に通ると九条ネギもなっている.八条より北の市街地とはまた違った趣が残っている.それで時々訪れる.
 2013年の夏,吉祥院六斎念仏を観にいったのも懐かしい.あの夏は忙しく,秋から調子が悪くなり,結局秋から暮れにかけて五週間入院した.今となってはそれも懐かしい.JR東海道線の京都の一つ西の西大路駅で降りて,西大路を南に九条通十条通りへと下る.天満宮十条通りと交差するところの西側にある.菅原道真はこの地で八四五年(承和十二年)に誕生し,十八歳まで過ごしたとされる.祖父の菅原清公が遣唐使として唐と往復するとき,嵐に遭遇しながらも吉祥天女の霊験により難を逃れ,以降菅原家では吉祥天が信仰されるようになったといわれている.
 天満宮の境内には地蔵様の祠もある.神宮に地蔵菩薩神仏習合である.自然である.ながく,神と仏は共存してきた.私は『神道新論』で,自分自身の経験をふまえて

 生まれれば神社に参り、死ねば葬儀は仏式に執りおこなう。この日本列島に暮らすものは、神の道と仏の道をたがいに基底で通じあうものとして受けとめ、補うあうものとしてきた。これは大きな智慧である。そして、学び、祈ってきたのである。このように神仏習合は自然なことである。

と書いたが,やはりそうだと思う.
 この日は近くの老人の家からも初参りに来ていた.ほとんどの人が車椅子で,看護師さんに連れられて参っていた.皆に交じって,この日は赤いろうそくをあげ,手をあわせてきた.

 それから十条通りを東に国道1号線まで歩き,そこでバスに乗って二駅.東寺の南門に着く.寺を囲むまわりの掘りにサギがいて,逃げもしない.人に慣れている.なかなかかわいいものである.
 東寺の中は広い.ここもまた神仏習合である.写真のように塔の西側に鳥居がある.八島神社である.空海がこの神と夢の中で出会い,そのことでこの地に伽藍を立てたと言われている.土地の守り神と寺は互いを認めあって来たのである.それが明治政府のもとで大きく損なわれた.私は『神道新論』で

 さてこうして、明治政府は神社の国家統制を強め、明治三十九年(一九〇六)には神社合祀令により地域の神社を国家のもとに整理しようとした。南方熊楠らの民俗学者がこれに反対し、それぞれの地方でも反対の運動がなされた。その結果、大正九年(一九二〇)、貴族院は合祀令の廃止を議決する。それまでの十数年間、全国二十万社の中の七万社が破壊され、多くの鎮守の森が失われた。南方熊楠の『神社合祀に関する意見』を読むと、ここで失われたものはほんとうに大きい。
 仏教についてもまた、全国の寺院で仏像や経巻の破壊が行われ、多くの寺院が廃寺された。奈良興福寺も一時期廃寺同然であった。富山藩では千六百以上あった寺院が六カ所になり、廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、寺院千六百十六寺が廃され、還俗した僧侶は二千九百六十六人にのぼったという。

と書いたが,やはり明治以来の近代百五十年の歴史をもういちど顧み,そこで失われたものを確認してゆくことが,これからのために必要だと思われる.
 東寺の境内をいろいろ歩き,それから門前町をゆっくりと東に歩いて,西洞院通りに出て左に曲がり,北にある京都駅を抜けて教室にいった次第である.

 今年は世界中で経済も政治も矛盾が深まり世が大きく動くだろう.日本のように中央銀行が株価を支えているところは,他にはスイスくらいなものである.アベノミクスのごまかしを維持するために,経済原則としてなしてはならないことを続けてきた.早晩これは破綻する.
 その一方で,今年は天皇代替わりの諸行事がある.アベ政治はこれを利用し,支配体制の揺らぎを天皇制礼賛で覆いかくそうとするだろう.前にも書いたが,日本の方がずっとひどい状況なのに,フランス人は立ち上がり,日本人は黙って耐える.そのわけをひと言でいえば,竹内好が「一木一草に天皇制がある」という天皇制である.
 『神道新論』に天皇制の起源について書いたことだが,要約すると 

 天皇家の祖先は千数百年前大陸からやってきた.その支配権が確立したころ,古代日本の各地の王権の歴史を簒奪し「日本書紀」を書き出し,日本列島に内発した王権であるとの虚構をうち立てた.そしてそれと矛盾する多くの文書を焚書にした.彼らは,農業協働体がおこなってきたさまざまの習俗を取り込み,天皇家がそれを代表するかのように振舞うことで支配の権威を打ち立てた.大嘗祭も,もととなる祭は収穫の感謝の祭であった.

 天皇制とは虚構の上にあるものなのだ.そしてそれが,ひとり一人が自分で考えることを抑えつけてきた.その歴史のうえにわれわれの側にある草木にもやどる天皇制,その内からの克服,これが課題である.個々の天皇についてここで言うことはない.
 資本主義が終焉期をむかえた中での代替わりである.この期に及んでもそれでも経済を拡大しようとする諸々の勢力が,天皇制を煙幕に使うことにまどわされてはならない.資本主義の次の時代を見すえたわれわれの理念と運動が問われる一年となる.そのように受けとめて,できることはしたいと思う.
 昨年出した『神道新論』をもっと展開したい.いろいろ考える.非西洋で最初に近代化し,そして百五十年を経て資本主義の終焉期に至ったこのところに生きてきたものとして,もっと耳を傾け聴きとったことを述べたい.多くの人の助力で『神道新論』を出したものの責任でもある.年のはじめ,京都の社寺仏閣に参っての私なりの思いである.