青空学園二十年

 セミの鳴き声が続いている.昔は,7月にニイニイゼミが鳴きはじめ,それからアブラゼミになってゆくのだったが,近年はニイニイゼミの声を聞かず,代わりに始めからクマゼミアブラゼミである.それだけ暑くなったのだろうか.
 小旅行のあと,いろいろ来し方をふりかえるときがある.ちょうどそのおり,青空学園をはじめて20年目の夏となった.今後のために少しふりかえっておく.サイトの玄関下には「1999.8.27~」としているが,初期のファイルを見ると1999年の4月~8月というのがいくつかある.この頃いろいろ作り始めていたのだ.26歳で働きはじめて昼夜のない生活をしていたのに,それから四半世紀たった1999年の春に専任講師になり,普段は一日4時間夜に授業をすればよいということになった.それで,昼間に,いろいろ勉強をはじめたのだ.そして「専任をおりる」まで13年続いた.こういう時間が得られたことを感謝している.
 昔,高校のとき数学同好会を友人と2人で作って,問題を立てて考えたり,数学教師と群論の入門書の輪読したりしていた.しかし実際の数学的現象を掘り下げ探究するということはできなかった.高校生のときの自分が今の自分に出会ったいたら,もっといろいろ学べただろうという思いがある.今の自分が時空を越えて高校生の自分にいろいろ教えたい気持ちだ.『数学対話』はそういう気持ちから,今の自分が昔の高校時代の自分と対話しながら書いてきた.青空学園数学科の原点は高校時代の数学同好会にある.

 受験生に数学を教えるにあたって,たとえ受験数学の場であったも,それでも出会った子らには根拠を問う数学を伝えたかったし,また数学をほんとうに教えるためには,それぞれの問題の背景や一般化をつかんでいなければならなかった.そのように考え,勉強した.そして高校数学といえば受験数学でしかない現実に対して,少しでも学問としての高校数学を事実として展開してゆきたいと考えた.同時に,高校生の現実としての受験数学から離れないように,実際の問題を掘り下げることを出発とした.
 『数学対話』のなかの「スツルムの定理」,「原始多項式」,「チェビシェフの多項式」,「カタラン数」,「ムーアヘッドの不等式とその応用」,「単位分数のエジプト分数による下からの近似」,「シュタイナー楕円」,「ポンスレの定理」,「生成関数の方法」などはみな,入試問題からはじめている.
 かつて私は「大学解体」が言われた68年の時代に学生生活を送った.もっともそれで大学院をやめたということではない.院をやめ高校教員になったのはもっと内的な理由からであったが,当時の大学の現実にこれではだめだと思ったことも間違いはない.そして,高校生に数学を教えることをいろいろな立場から続けることで,改めて確認したのは,やはり20歳前後の人を対象とする教育機関は必要だということであった.しかし,それに応えうるものは現実には存在しないし,今はまだ存在しえない.そこで電脳空間に仮想の学園を作り置こう,それが青空学園をはじめたもう一つの動機であった.

 現場の教員がこれらを自分で勉強するには時間がないだろうと思い,古典にも当たって勉強し,それを書いて公にしてきたのだ.先日も書いたのだが,青空学園数学科では,現在 A4版のPDFで3200枚になるものを,HTMLで公開し,PDFも自由にとれるようにしている.数学が少しでも根づくようにと願って無償で公開してきた.これは私の信条にもとづくものである.これができるようになったのは情報技術の発展の結果であり,その意味で青空学園は必然であった.
 青空学園のサイトを見て,もう少し今風に見栄えのする形にしてはという意見も聞く.しかし,もともと自分が考える場として作ったものであるし,HTMLファイルで内容を確認したら,PDFファイルを入手してそれを印刷して,手を動かして勉強してほしい.その点からいえば,HTMLファイルはあくまでその導入のためにある.
 教科書風の受験対策の数学参考書は多くある.その一方で,おもしろく書いた読み物もある.しかし,高校から大学範囲の数学を,学問としての立場からそれなりに探究し書き表したものはほとんどない.そのような文化は日本ではまだ育っていない.そこで,そのような試みの跡を残しておこうと,これをやってきた.
 青空学園数学科の訪問者数は一日で100人前後ある.検索で来るのが半分くらいはありそうであるが,いずれにせよそれだけの人がここに来て,何かを考えている.また,元原稿を含めてDVDRに焼いて実費で配布している.2002年からはじめて,270枚超の申し込みがあった.こんなことからも,逆にまた責任も大きいことを思う.

 青空学園数学科でまだやり残しているのが,『解析基礎』のなかの「複素解析」である.書棚の本をいろいろみて一松信先生の『函数論入門』を再読することにした.これは高校2年の頃に買って,しかしこの本の通読はできていないままであった.大学に入ってから買った吉田洋一先生の『函数論第2版』とあわせて,勉強する.そして,やり残しているところを,自分の理解にもとづいて仕上げたい.この課題を再確認したのも,この数日の成果である.
 ついでに書いておけば,仕事の方も当面忙しい.2つの問題づくりとその解答解説の原稿作成である.盆まで,9月はじめまで,等々締め切りもいろいろあることを念頭においておこう.そうしないと後回しになってしまう.

 青空学園では同時に,日本語科も開設してきた.日本語科でやってきたことは,根のある思想を構築するための土台作りである.『日本語定義集』はそのためのまさに前提をなす作業であった.それがようやく一定の蓄積ができ,人に語ることができる段階になり,一連の文章を雑誌に寄稿し,それらをまとめて加筆し『神道新論』として公にしてきた.
 これもまた,近代の翻訳日本語に大きな違和感をもった高校時代の自分の気持ちが出発点である.ラッセルの『西洋哲学史要』,確かみすず書房だったと思うが,これを図書館で借りてくりかえし読んだ.しかしあのとき「思考」とはどのように頭を働かせることなのか分からなかった.今はこれを「根なし草近代の言葉」としてとらえているが,当時は違和感だけが残った.

 だから,私が青空学園をはじめたのは,このような自分の高校時代の数学と日本語における疑問などに応えうる教育組織を,とりあえずは電脳空間に作りおこうということであった.
 しかし,まったく道は遠い.この日本は非西洋にあって最初に西洋化し、そして150年、いままさに没落の瀬戸際にある.近代の果てとしてのアベ政治は,同時に資本主義の閉塞の中でいっそう悲惨なものとして現れている.没落し,かつてこのような非西洋の国があったと後世の世界史の中の一幕となるのも致し方なしと考えて来た.日本というところは,いったんはそこまでいかねばならないのかも知れない.
 そしてそこで,それでもそこに生き残る人らがそこから立ちあがるときに,よるべき言葉がいる.根のある変革思想の礎として,それを言い残し置かんと『神道新論』を書いたのだ.力およばずであるが問題の提起にはなっていると確信する.
 それはまた,自分が高校生に教えて,今の高校生の考える力の衰えを実感し,その根源が根なし草の近代日本語にあることに思い至ったことがはじまりであったが,そのような近代の行きつく果てに直面して,考えてきたことはやはり必要なことであったと思う.
 闇夜のなかの破壊の瓦礫の中から,新たにたちあがってゆくとき,生きた言葉とそれにもとづいて根拠を問う学問が,不可欠である.非力かつささやかではあるが,できるところからその準備をしてゆこう,それが,これをはじめたときに考えたことである.そしてまた私の考えは,まだ全くの少数である.日本語科の一日の訪問者は数人である.しかし,いずれ,多くの人がそうだと考える時がくると信じている.

 私は,理系人間でも文系人間でもなかった.理系,文系という高校から大学での分け方は,近代日本の教育が手っ取り早く官僚と技術者を作るために作り出したものである.官僚は,数学に時間を使う必要はない,技術者は歴史や古典は知らなくてもよい,というわけである.
 私は高校時代,数学も哲学もおもしろかった.また大学生になったころは道元の『正法眼蔵』を,分からないままに,いつも持ち歩いて読んでいた.それで結局大学院を中退し,高校教員からはじめていろいろなことをやり,青空学園で考えて,そして『神道新論』などを表した.これは,理系文系という近代日本の底の浅い枠組を自力で乗りこえるということでもあった.道はもとより途上であるが,それは確かだ.

 写真は,奄美の海でひろってきた珊瑚のかけらを水瓶においたところ.写っている青色は空の色.そして,2008年に沖縄に連れってもらときに買った素焼きのキジムナーと,それをおいたガジュマル.二鉢ある.ガジュマルは近くの店で一つの小さい鉢植を買ったのだが,大きくなり株分けしたのだ.もう一つ分けたのがあったのだが,外に置いたままにしたとき霜にあたって枯れた.ガジュマルは霜には弱い.以来,鉢に植えて真冬は家の中に入れている.奄美から戻って以来,ようやくに夏空が続いている.