夏の数日

 この数日,仕事ではないことごとでいくつか出かけてきた.

 木曜日十一日の夜は梅田まで行って,山本太郎の街頭演説を聴いてきた.山本太郎の活動は議会選挙の運動として新しい.参院選に十人の候補を立てた.参院選公示後の街頭演説を沖縄からはじめて東に進み大阪に来たのだ.ヨドバシカメラの向かい側大阪駅前には多くの人が集まっていた.この場所にこれだけの人が集まるのは,戦争法に反対する集会の二〇一五年の秋や二〇一六年五月のの憲法集会以来である.二〇一五年秋のことは「やつらを通すな」にある.あのとき,結局やつらは通り,そのアベ政治はいまもって続いている.
 山本太郎は自分の言葉で語る.新自由主義がいきわたり人の価値が生産性ではかられる今のあり方を変えよう,人のいのちを大切にする世に変えてゆこうと呼びかける.そして,消費税廃止と累進課税の強化を軸として,奨学金返済免除などを含む政策を語る.立候補した十人立候補した十人の言葉はいろいろなところで聞けるが,みな自分の言葉で語っている.それが聞くものの心を打つ.芸人だから話がうまいという人がいるが,それはちがう.彼らは自分の言葉で喋っている.
 今回の参院選ではもう一人、労働者の使い捨てを許さない! と全国を駆け回る大椿ゆうこの話も人の心をつかむ.これらの人たちが表に出てきたのは時代の要請、歴史の要求だ.それに応えた彼らの周りでは多くの人が動いている.

 そして土曜の十三日は定例の梅田解放区の日.この日も雨交じりでガードの下に移動する.道の向こうの五十メートルほど離れたところで,大阪維新の会が街宣をはじめる.参院選候補も街宣車でやってきて手を振っている.スピーカの音量はこちらが圧倒的に大きい.維新政治とは,カジノであり万博誘致であり水道民営化であり,大阪を民間企業に売りわたすものだ.維新の吉村知事は慰安婦像のことでサンフランシスコとの友好都市を解消した.丸山穂高衆議院議員や長谷川豊候補は維新そのものである.これを語る.維新の用心棒らしきものが来て偵察したりしていたが,そのうち維新は退散した.

 もう近代主義左翼はこの時代の要請にこたえることはできない.近代主義とは近代資本主義が作りだした世界観であり,日本においては明治以降の思想潮流,その枠組の中の左派、私はそれを根なし草左翼というが,もはやそれは歴史の遺物でしかない.人の原理に立脚し,資本主義の現在を打つ破ってゆく思想と運動,それが歴史をつくる.
 もとよりアベ政治が牛耳る今回の選挙の結果はわからない.また,選挙だけで世が変わるわけではない.しかし,ここで生まれた人の動きは次につながる.このようなことを通して新しい人のつながりが生まれ、選挙も一つと方法として、世を動かす力を蓄えてゆく.量の蓄積が質を変える.一人一人が自分の居場所から時代の要請に向きあい,そして街頭に出て語る,これを続けてゆきたいし,こちらもできるところまで手伝うつもりである.

 日曜日の十四日は私にとって年にいちどの京都相国寺僧堂での座禅の日である.在家居士の参禅会である智勝会のOB会があった.阪急烏丸四条で降りて四条通りに上がる.祇園祭も近く,山鉾が並んでいる.この季節の京都は,体が覚えているという感じで懐かしい.平安時代に鎮魂の祭りとしてはじまった祇園会,千年の歴史である.相国寺で再び座禅をするようになった経過などはくりかえさないが,一昨年のことは「今年も相国僧堂」に書いた.昨年は「宵山の日の参禅」に書いたように天気もよかった.今年は雨がちであった.
 この日少し早めにゆくと,ちょうど鐘楼の下にある横椅子に座っていた二人のうち一人が,拙著『神道新論』を読んだと声をかけてくれた.私より九歳年上の医者である.いろいろ意見も聞かせてもらった.今の日本への危機意識ものべられた.それで「分水嶺にある近代日本」の載っている雑誌も送ることにした.それぞれの考えは尊重して,明治以来の日本近代について,考えるところを出しあい対話したい.拙著の後書きに,「いろんな人と対話ができればと思う。大きく世が動いてゆく時代にこそ、言葉を大切にして語りあう文化の根づくことを願っている。」と書いた.その思いはいよいよ大きくなっている.
 そして相国寺専門道場のある大通院に入った.ここは観光客は入れない.二時に相国僧堂書院の広間に集合.それから読経の間に移動し雲水さんの木魚にあわせてみなで読経をおこなう.それから僧堂に入り,座禅を二柱(線香一本が一柱で二十分ほど)おこなう.そして老師の臨済録をもとにした提唱.それからまた広間に戻りみなで薬石,つまり精進料理をいただきながらの交流会と時間を過ごしてきた.この日は先日亡くなられた 上田 閑照 先生の供養も兼ねたOB会となった.相国僧堂での在家居士の座禅は近くは西田幾多郎の弟子の西谷啓治先生以来であるが,古くは室町時代からあるのではないかと思う.京都での長い伝統の営みである.
 座禅会の散会のあと,Sさんと小雨の中を相国寺境内から同志社大学の横を通って歩いた.二〇一四年の秋にSさんの案内で永観堂などをまわった.そのときの記録がここにある.もうあれから五年がたつのだ.また今年の秋においでよと言ってくれた.そして地下鉄の今出川駅まで戻った.京都の街のなか,同志社大学の横にこのようにおちついた場所がある.写真は相国寺法堂である.

 これが私の今の時代のなかでの週末から日曜であった.こういう時間を過ごして,いったい自分は何をやってきたのだろうと考える.『神道新論』は一つのことを書き置いたとは言えるが,それはまだまだ小さなことである.非西洋で最初に近代化した日本の経験をほんとうに振り返れているかといえば,まだ緒についたばかりである.
 でも人はこうして,何らかの道をたどり歩むのだとも思う.まさに「大きな歴史のなかの小さな歴史」のなかの数日であった.僧堂と再会したのは福島の地震の後であり,『神道新論』を公にしたのはさらにその後,あの大病の後であることを思えば,ほんとうに感慨深い.