没落途上国・日本

追伸(2日):小出さんの『フクシマ事故と東京オリンピック』が届いた.帯に,
忘れていませんか? 
この国は,現在も,100年経っても,『原子力非常事態宣言』下にあることを 
≪世界に告ぐ≫東京五輪は即刻中止!

とあった.7カ国語で書かれている.この本は「フクシマ事故と東京オリンピック」をもとにしているが,翻訳をあわせて1冊の本にしたものである.これが世界の多くの人に読まれることを願っている.

 今日から師走.奄美に行ってから四ヶ月である.時間の経つのははやいようにも思う.また,このあいだに時間だけのことをしてきた,とも思う.

 昨夜30日も梅田解放区があった.定例は第2,第4土曜日としているのだが,事態の緊急性から毎週土曜日にやることになった.12月のこちらの土曜は7日以外は仕事や地元の行事で詰まっているので,何とか昨日も参加して横断幕をもってきた.

 若い人らが喋るのを聞きながら、考える.日本は,教育費の公費負担の割合が先進国中30数位で下方から2番目.この二十年先進国で賃金が下がったのは日本のみ.医療費の個人負担も高く,さらに75歳からの負担割合を1割から2割に引き上げようとしている.そして若者の賃金はまったく足りず,たとえ仕事があって寝る時以外の時間をほとんどを仕事に費やしても,食べるのに精一杯である.
 その一方で,世界で最も外貨保有高が大きく,企業の内部留保も大きい.そして,オスプレイ17機3600億円,イージスアショア2基6000億円,F35戦闘機147機6兆2000億円とアメリ軍需産業からいわれるままに爆買いし.辺野古新基地2兆5000億円,オリンピックに3兆円,である.
 その総集が,日米FTAである.日米FTAが現実化すれば,どのようになるのか.これについては長州新聞の記事「主権蹂躙も甚だしい日米FTA 国会承認急ぐ政府が明らかにしない協定の内実」がよくまとまっている.
 日本という国は,働く者を金儲けの資源として搾り取れるだけ搾りとるところになっている.そしてそこで奪った金を国際資本に捧げ出す.これが今の日本である.どこか先進国なのか.と言って発展途上でもない.ならいまの日本は何なのか.そこでうかんだ言葉は,「没落途上国」である.それがまさに今の日本であり,没落の途に大きく舵をきったのが8年余続くアベ政治である.
 今年の初めに『分水嶺にある近代日本』を書き,そのなかの「悲惨国家の現実」で,立て前としての近代国家の枠組さえ崩壊したことを述べたが,この一年,アベ政治はそのままに,首相や閣僚の犯罪を積み重ねてきた.
 アベ政治による日本没落は,対外的にも現実化してきている.「安倍首相、国連演説を断られる 9月の気候行動サミット」という記事が今になって共同通信が配信した.「お前にそんなことを言う資格はない」と拒否されたのだ.混乱は,来年のオリンピックでいっそう現実になる.まず,核汚染を理由とするいくつかの国不参加,選手の参加拒否,そしてそれでも強行して,酷暑での選手やボランティアの問題の顕在化.これを承知で誘致し受け入れた日本オリンピック協会と国際オリンピック協会.こうして,日本は何というところだということが広く知れわたる.

 目の前を通り過ぎる若者の群れをながめる.皆,世のあり方や政治には関心がないこのように歩いて行く.なぜ,香港の中学生や高校生のように立ちあがらないのか.ここ東梅田の交差点はほんとうに人の多いところである.没落する国の現実が否応なく吾が身に迫らなければ,気づかないのか.あるいは,いろいろな困難があっても,自分の責任だと考えて,反抗しないのか.
 なぜこんなことになったのか.日本の近代教育は,根拠を問うことを教えなかった.戦争責任は問いつめない.「原発は安全だ」と言われればそのまま受け入れる.アベ政治が続いてきたのはここにそのわけがあるかもしれない.そして,それにのってやってきた近代政治のなれの果てがアベ政治である.
 人は金儲けの資源ではない.人それ自体が尊厳あるものとされる世であらねばならない.今の日本はそれとはまったく逆の世である.
 日本の植民地支配と闘ってきた韓国や中国の人々には,抵抗の心とそれにもとづく行動が根づいている.植民地支配を問い直すともできない日本は,自らの国家が没落してゆくときにも,行動できないのか.
 ある人に聞かれた.今の中国をどのように考えるのか,と.これについては今から28年前に「十六年目の中国」に書いたように,この時代から中国はもう社会主義ではない.あれから28年.今の中国は,経済は資本主義,政治は一党独裁ファシズムである.であるから,私はこの中国と闘う香港の若者を支持する.そのうえで言えば,香港の闘いも,まだ拡大の余地のある資本主義中国のファシズム政治との闘いとして,困難で長い闘いとならざるを得ない.これはまさに長征である.

 人に言う前にまず自分でできることをやる.それが梅田解放区に参加する理由である.また『神道新論』を表したのも,立ちあがってゆく足場を掘り下げることであった.杉村さんが拙著への書評のなかで,「21世紀の『革命の長征』は、ここからしか始まらない状況にわれわれは逢着しているのではないか 」と書いてくださったが,ほんとうにそうである.
 そしていま,私は,ここからの次の言葉を模索している.道は遠い.これもまたまさに長征である.香港の闘いが長征であるのとおなじ水準の長征なのだ.
 今われわれは歴史のこのような段階に立っている.この数日いろいろ考えるところがあったが,街頭に立って考え少しはまとまってきた.

アベはよやめろ

追伸:香港の区議選で民主派が圧勝した.いよいよ,日本はなんとも遅れた国であることがいっそう明瞭になった.逆にまた,国破れた日本での,下からの人々のつながりの大切さも,深く教えている.

 昨日は梅田解放区の日であった.はじまる時間に行くともう横断幕もあがっていた.SNSなどで知った人らが集まってくる.およそ20人,いろんな人が集まり声をあげる.人数が増えたので,この日も二手にわかれてやってきた.

 この日は韓国のKBSが取材に来ていて,1時間半,ずっと録画を撮っていた.どうしてこれを知ったのだろうか.日本でもこんな風にやっている人らもいるのだということを放映するのだろうか.そうならこちらも見てみたいものである.

 それにしても,香港でも韓国でも人々はあのように街頭に出る.そして政治を動かす.日本でいま起こっていることは,韓国や香港の問題よりもっと露骨な権力による国家の私物化である.それでもアベは居座り続ける.それを許している.
 日本はかつて朝鮮を植民地とし,中国を侵略した.その日本の侵略者への闘いが,彼の地の近代であった.そしてそれをふまえて,韓国や香港の今がある.日本はといえば,この植民地支配と侵略の過去を総括もできていなければ謝罪もしていない.
 第2次世界大戦の開戦から80年目となる9月1日,ポーランドのビエルンで行われた式典でドイツの大統領が演説し,ポーランド国民に許しを求めた.それに対してアベはどうだ.マスコミまで動員して嫌韓を煽ってきた.
 しかし,今や韓国や東アジアの諸国の方が,政治も経済も日本より歴史の先を行っている.過去から目を背け続けるなら日本は,ますます没落してゆく.今はまだ曲がり角をどちらにゆくのかの段階である.しかしこのままゆけばそう遠くない時点で,没落国家,物笑い国家,その下での日々の悲惨な生活,という事態になる.それはまた,ここに来ている若者らの生活と未来を崩してしまうものだ.
 このままでは殺されてしまうぞと,前を通る若者達に訴える.それは大げさなことなのではない.今の日本を見ていると,これは避けがたく,行きつくところまでゆかざるを得ないかも知れないとも思う.
 資本主義は拡大し続けなければ存続しない.資源を奪ってきた周辺が小さくなって内部からの収奪を強め,格差を拡大し,国家を私物化してきた。そうしなければ資本主義は維持できない.その先端を行くのが日本のアベ政治だ.資本主義の延命のために国民のさまざまの財産のすべてのを軍需産業を核とする世界資本主義に捧げる.アベ政治はまさにそのために存在している.売国民政治なのだ.

 街頭に出ることは自分にとって大切な時間だ.今週,こちらは先日あった京大理学部特色入試の数学の解答づくりが積み重なって時間がなかった.さらに解答の不備なども見つかり,結局は梅田解放区に参加して,横断幕をもちながら,もっぱら解答の改訂を考えているという状態であった.それでもいろいろな視点から考えることができる.
 また,関電前集会のころからの知りあいのTさんも来ていて,一緒に横断幕をもってきた.20代の若者から,われわれのような70代の者まで,そして,仕事も生活もそれぞれ異なるものが,アベは早くやめろと声をあげる.これは二年半ほど前からやってきたもので,新しい形であり,アベ政治が逆に生みだしたものだともいえる.
 事態が切迫してるので,毎週土曜日,やるとのこと.12月の第2,第4土曜日は授業や地元の用事があったのだが,そういうことなら他の土曜日にいけるときがありそうだ.
 もっと多くの人が集まり,人々が道路にあふれて,そして目の前を通る若者らと一緒に車道をデモする.そこまでいきたいものである.

声をあげよう!弾圧ゆるすな!

 追伸:梅田解放区は18日,19日,20日と連続して街頭に出る.こちらは時間割仕事でいけないが,いける人は参加を!

 昨日,大阪市北区西梅田公園でひらかれた、全日本建設運輸連帯労働組合(連帯ユニオン)関西地区生コン支部に対する,組合潰しを目的とした異常な弾圧への抗議と,関生連帯の集会:声をあげよう!弾圧ゆるすな!11・16全国集会 あたり前の市民運動・労働運動を守ろう!に参加した.総勢1200人の集会となったとのことであった.実行委員会のフェイスブック,またこの集会を報道するIWJの動画もある.レーバーネットの報告もある.
 昨年の関生連帯集会から一年,弾圧は一層酷くなり,逮捕者も被拘留者も3倍になっている.

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 この集会決議をあげたあと,大阪の街をデモしてきた.西宮の地元の知りあいのKさんも来ていた.また梅田解放区の知りあいも何人か出会った.
 資本主義は拡大し続けなければ存続しない.資源を奪ってきた周辺が小さくなって内部からの収奪を強め、格差を拡大し、国家を私物化してきた.そうしなければ資本主義は維持できない.日本ではアベ政治だ.そして彼らのしたことが関生弾圧である.
 言いかえれば,これまでの関生の労働運動は,資本主義の終焉期に現れたアベ政治をうち破り,次の時代を作る力であった.そしてこの弾圧は,逆に多くの者を再結集させ,新たな連携を生みだしてきた.乱鬼龍さんも東京から来られていた.
 「金曜行動と議会選挙 2012.12.07」にも書いたが,関生労組の機関紙「くさり」は毎号送ってくれている.もう三十年近くになるかと思う.かつていろいろと世話になり励まされてきた.今回の集会も,その場にいて皆の発言を聞き,沖縄の歌と踊りや川口さんのあの大きなよく通る声を聞き,いろいろ考えることで,力をもらった.
 私はかつては教員組合の委員長であったり,その後党派の専従であったりと,組織のなかで活動するときがあった.今は,自治会を除いてまったく組織には属していない.高校生に数学を教えながら青空学園をやり,そこで考え準備してきたことをもとに本を書いたりしてきた一個人である.そういうものとして関電前の集会や梅田解放区に顔を出し,街頭を考える一つの場にしてきた.これはかわらない.動けるうちはやってゆきたいと思っている.

ニジノキセキ

 8日金曜日夕方4時から宝塚の公民館で映画『ニジノキセキ』の自主上映会に行ってきた.かつて芦屋の中学校の教員で,地域の解法教育運動を一緒にやっていて今は宝塚で活動しているKさんが,この上映会の案内を、かつての同僚になる妻に送ってきてくれた.
 この映画は,1948年4月24日を頂点にする阪神教育闘争から70年の昨年制作され,今年夏から自主上映がはじまっている.兵庫の民族教育の歩みと在日コリアンの子供たちの声を伝える映画である.映画は,韓国の映画祭と共和国の平壌映画祭に出品され,初の南北同時受賞となった.

 厳しく困難ななかで,民族教育をきり拓いてきた親,生き生きと成長する子どもが,えがかれている.たくさんのことを学ぶことができた.かつてから,阪神教育闘争のことは伝え聞いていたが,『「4.24」教育闘争とは?』にあるような,その中味を詳しく理解していたわけではなかった.1945年の日本の敗戦によって,朝鮮は植民地から解放され,植民地支配の結果として日本に移っていた朝鮮人もまた解放された.そしてまずはじまったのが,朝鮮語を教え,自分たちの教育をおこなう学校の建設であった.それが「ウリハッキョ(われらの学校)」である.全国各地にさまざまの学校ができ,日本の学校と同様の外国人学校として運営されてきた.
 しかしその後,東西冷戦の段階に入るとともに,日本を占領していたアメリカ・GHQ朝鮮人の自主的な教育運動に警戒をはじめる.そして日本の警察を使って弾圧してゆく.閉校命令,廃校命令が相次ぎ,これに対する闘争もまた激しくなる.
 兵庫県内でもいくつかが廃校となってゆくが,阪神教育闘争によって最後の学校が存続するようになる.
 それでもみなが民族学校にゆけたのではない.私が高校教員になってはじめて担任したクラスには金さんという女生徒がいた.祖父が,日本の植民地支配の結果,故郷では食えなくなって日本に渡ってきたということであった.彼女は入学したときから本名であった.一方,この映画にも少し出てくるが,あの当時,朝鮮籍を隠して日本名で通学する子もいた.被差別部落の子が自分の生い立ちを語るのを聞いて,自らの民族を取りもどし,本名を名のった子も同じ学年にいた.あの頃の阪神から神戸の各地での教育運動をいろいろ思い起こした.
 阪神教育闘争から70年.いま教育無償化における朝鮮学校への差別政策の問題が再び現れてきている.それに対するさまざまの取り組みが行われている.この差別政策で学校の運営は経済的に苦しい.しかし,この映画に登場する人々には,自ら築いていたさまざまのことの上に,未来を信じて進むことができる.

 いちばん問われているのは日本のわれわれである.このままでは日本に未来はない.これまでも書いてきたように,アベ政治の下で日本は没落してゆく.北朝鮮外務省の宋日昊・日朝国交正常化担当大使は11月7日,日本を「政治的に(取るに足らない)小さな国」,「沈みつつある島国」で「希望のない荒廃した国」と見なし,北朝鮮の新時代の外交からは日本は排除されていると主張した.彼らがそういうのにはその根拠がある.
 それが,近代日本のまさになれの果てとしてのアベ政治の現実である.アベ政治は,日本をまさにそのようなところに落としこんだのだ.

 そして9日は定例の梅田解放区の日.この日も参加者は多く,道をはさんで2ヵ所で,若い人らと声をあげてきた.私は例によって,マイクはもたず,横断幕をもつのを手伝いながら声をあわせる.2ヵ所でやったので,持ち場を離れられず,あまり写真は撮れなかった.
 ここに来る若者はみな生活は苦しい.また,関東や福島から避難して関西に来ている人らもたいへんである.アベ政治を変えなければ,この困難は続く.そう考えここに来て声をあげる.
 アベ政治とは人を金儲けの資源として搾りとる政治である.そして企業の儲けに対する課税を減らし,消費税を上げる.こうして,格差が拡大し,世がすさんできた.経済でも技術でももう日本はすでに先進国ではない.そして,本来なら公民権が停止され,収監されねばならないような政治犯罪を犯しても,大臣職を退くだけでそれ以上の追究はなされない.司法もアベ政治の一部である.
 人は資源ではない.人としてあること自体が価値である.それを具体化する政治を現実にしなければならない.消費税は廃止し,企業への課税を増やす.最低賃金をすくなくとも1500円にし,同一の労働に対しては,雇用関係のいかんに関わらず,同一の条件を保障する,などなど.子どもを大切にしてともに育てる世に変えてゆく.そんな思いを語る.

 まえに杉村さんが拙著への書評のなかで

西欧から始まったグローバリゼーションは、いまや世界中で、近代日本が抱え込んだのと同じ問題を突きつけている。しかし、21世紀の「革命の長征」は、ここからしか始まらない状況にわれわれは逢着しているのではないか。 

と書かれたが,まさにそうである.すべての問題は,経済ではなく人を第一に,ということなのである.中国と香港の問題も,中国内部の問題も,日本における沖縄の問題も,福島の問題も,南米の闘争も,フランスの黄色いベスト運動も,アメリカの99%による占拠運動も,である.経済を第一とする世から,人を第一とする世への転換の長征,これが現代である.今はまだ世界各地の運動がこの考え方の下で統一しているわけではない.しかしその内容はまさに人としての尊厳をうち立てようとするものである.そして,その前途は長く困難である.

食の安全を売ったアベ やめろ

 25日,地元の市民館で午後2時から4時まで、「食の安全、大丈夫ですか」という学習会があった.主催したのは,日本共産党甲陽園後援会で,講師は「国民の食料健康を守る運動全国連絡会議」の兵庫県の柳澤尚さん.長く神戸税関で外国から入ってくる農作物や食糧品,化学品が適切な手続きを済ませて,国内に引き取られているかをチェックする通関業務に携わってきて10数年前に定年退職された人である.

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  自給率の危機と押し寄せる食品汚染
  食料のアメリカ依存では食卓の安全は守れない
  米国多国籍企業に食も農も明け渡す種子法の廃止
  多発する災害に備えて,農林・水産業の再生を
  貿易自由化に伴う感染症の広がり
 これらについて詳しく話された.現在国会審議中であるが,先だってアベがトランプのいいなりに受け入れたアメリカとの貿易協定が,いかに食の安全をアメリカに売ることであるかということである.まさに,いわゆる新自由主義,言いかえれば,資本論理むき出しの世界大の政治と経済が,日本の農業,漁業や食の安全を食い尽くそうとしている.戦後の日本は国際金融資本の金融植民地であったが,アベ政治の下で農漁業もまた国際種子資本や農業資本の植民地となった.
 これらの国際資本による日本の食い尽くしという問題を指摘しているのは共産党山本太郎のところだけである.いちばん心配なのは小学校や中学校の給食だ.そこで使われているパンや食材がどのようなものであるのか.何を食べさせているのだと親が立ちあがらねばならないが,この問題は若い親には十分には認識されていない.そこがこれからの課題である.

 講演を聴きながらつくずく思ったことは,日本という非西洋で最初に近代化したこの国は,今没落の道をひた走っているということである.いちどは堕ちるところまで落ちないとだめなのかも知れない.日本においてはこの没落の底からの再起は,明治維新以上の激動である.
 それは世界大でいえば,世界の各地の激動と軌を一にする,資本主義の終焉期の激動の一つとならざるを得ない.実際,リーマンショック以上の世界的な金融危機は不可避である.大きな経済恐慌が起こることはまちがいない.そしてそれぞれの地で次の段階への闘いが続くようになる.そういう時代が来る.話を聞きながら,このように思った.

 そして26日は定例の梅田解放区.いくともうTさんもきていた.参加者が増えた.20人以上になる.それで,道路をはさんで両側で歌い喋る.いつものように,私は喋らずにただ立ってプラカードを持つ.

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 ここ東梅田の線路下はほんとうに人が多い.道の向こうでもこのように横断幕を掲げる.道ゆく若者はどのように聞いているのだろうか.それでも,手を振ったり一緒に並んで写真を撮ったり,いろいろ反応が出てきているのもおもしろい.世の酷さがそれだけ深まり,いよいよ自分の問題になってきたという若者が多くなったのかも知れない.

 さて,10月15日付の『人民新聞』1696号で杉村さんが拙著への書評を書いてくれた.この書評はいろいろ考えることを提起してくれていて,勉強になった.それで,これに対する返礼の手紙を『人民新聞』に寄稿した.10月25日付の1697号に掲載.それに対して杉村さんから「どうぞこの線でさらに思索を深化されることを期待しています」とメールをいただいた.考えれば大きな課題をいただいたのだ.
 大きな枠組をはっきりさせるため,まず前にいちど読んでいる『未来への大分岐』の再読をはじめた.読み終えて,自著は,この資本主義がおしつける偽りの普遍性に抗い,その奥にあるものを指し示すものであることをあらためて思った.これから杉村さんが翻訳したいくつかのフランスやイタリアの思想家のものを読みたい.
 このような問題は普遍的に提起される.しかし,現実には固有性をもって現出する.その固有性の場での把握と問題の解きほぐしが不可欠である.そして,拙著をもとに,ここから現代の課題にむきあい,これらの西欧の現代思想とさらに大きくむすびつつ深い普遍の場を拓いてゆかねばならない.そのための基礎的準備が拙著であったが,それをふまえて,次の課題をまずはっきりとつかまねばならない.

 27日日曜日、鹿砦社から,鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』(『紙の爆弾』2019年11月号増刊)が献本として届く.いろいろ知らないことも多くあり面白かった.京都をはじめとする学生運動の歴史を残すために大切な仕事だ.
 同時に思ったことは、それがあの時代の闘争のすべてではないということだ.私は1973年の秋から芦屋の市立高校に来たのだが,あの当時は定時制高校での闘いや部落解放運動,それと連携した解法教育運動が地域で取り組まれていた.それは68年の世界的な学生青年運動が地方に広がっていったともいえるし,京都を出た学生が改めて草の根からの解放運動にであったともいえる.
 私はそこで学んだことがそれからの人生の基礎である.このようなそれぞれの地方の闘いもまた取りあげ残せないものかと思う.

台風の日に

 昨夜は定例の梅田解放区の日.台風が通っているが,雨ならガード下でやれるのでいつも通りと出ていた.それで,梅田に向かう.

 阪急の神戸線の駅まで行くと神戸線は特急などが止まっていて各停だけしか動いていないとわかる.それに乗る.
 車内放送で台風のため各停だけであることを説明した後「ご迷惑をおかけしますことを深くお詫びします」という.安全のため特急などを運休している,つまりはするべきことをしているだけなのに,なぜ詫びるのだ,ほんとうに詫びるのなら運賃まけろ,と思うが阪急にその気はない.この口だけのお詫びの言葉は,何かあるといつも車内放送でいうのだが,偽善もいいところである.日本中この口だけの偽善言葉がまかり通っている.
 何度かドイツに行ったが,ドイツのスーパーで感心するのは,レジ係の無愛想なことである.黙々と商品の値段を機械に取りこみ,表示された金を払うと,それだけ.愛想笑いのもなければ会釈もしない.店内放送もない.偽善の日本から行くと,実に気持ちがいい.
 日本のスーパーは,例えば近所の阪急系列の店内放送は,店内放送の最後にで必ず「買い物をお楽しみください」という.買うものがあるから店にいっているのであって,別に楽しむためではない.なぜこんなことを言うのか.買い物を楽しむというこの言葉の軽薄と空しさに阪急は気づかない.
 この偽善の言葉の蔓延は,今の日本を象徴してる.なぜそんなことが言えるのかと,その根拠を問うことをせず,偽善の言葉で飾られたことをそのまま受け入れる.戦争責任は問いつめないし,「原発は安全だ」と言われればそのまま受け入れる.

 それに対して,ここ梅田に集まり言いたいことを語りかける彼らの言葉は,内からのものだ.先の台風における政府の対応,徴用工問題の意味,ここに現れたアベ政治を暴き語る.また,汚染水を大阪湾に流すという松井大阪市長への批判.その署名活動も同時になされていた.汚染水を政府や松井市長は「処理水」という.これもまた偽善の言葉である.
 台風であったがそれでも10人以上集まっていた.この取り組みは梅田に定着してきたし,これからも続けたい.

 自分のための記録.
 その前日,11日はかつて友だちだった故Nさんの三回忌が過ぎたということで,Uさん,Tさん,Yさんと4人でNさんの夫人が一人で住んでいる守口の家まで行ってきた.Yさんとは45年ぶり,他の人は何度かあってきたが最近では2年前Nさんが亡くなって少しのころに,ここで会っている.
 45年くらい前「月刊たいまつ」という雑誌が出ていた.むのたけじさんの新聞「たいまつ」の流れをくむ人が出していた.その雑誌の読者会を大阪でやっていた.彼女も入れて皆そこで知りあった仲である.Tさんはさらにその前,ベ平連京都のときからの知りあいだ.UさんTさんは,私が京都の下宿を引き払い兵庫県に移ったとき,そのレンタルしたトラックにのって,Uさんが運転してくれたようなあいだである.
 みなYさんとは45年ぶりだったので,まず彼にあの時代からこれまでの歩みを聞かせてもらい,それから各自のこれまでを語った.私は拙著をもって行って皆に渡し,Nさんの仏壇にも供えさせてもらった.Nさんはいちばん読んでもらいたかった一人だ.また,誰かに遺言かと言われたが,まったくそうである.
 Tさんの実家は広島の神社であり,私も一度いったことがる.彼が後を継いでいる.この日は広島から来てくれたのだ.彼は自分は古神道だという.私ともっと対話できるかも知れない.またいちどいってみたい.
 先日の中学の同窓会のときは,自分が昔の友だちと違うところを歩いてきたことをつくづく思ったが,逆にこの集まりは同じ仲間であることを実感する.Tさんが昔の「たいまつ読者会通信」などを持ってきてくれたが,ガリ版刷りのそれらも懐かしい.ガリ版は字体も残るので,これは誰が作ったとかも話題にできる.私が書いたのもいくつかあった.今のようなパソコン印刷よりもある意味では優れている.
 昼に寿司などを買い,それら皆で食べ,彼女が用意してくれた酒を飲みながら,いろいろ話していると,もう5時半かということになった.再会を約して家を出て,それから男4人で駅前でラーメンを食べて引き上げてきた.自分自身をふりかえる貴重な時であった.

アベやめろ!(続)

 昨夜は定例の梅田解放区の日.世のあり様がいちだんと酷くなるなかで,この日はこれまで以上に多くの参加者があった.語るべきことも多く,いろいろな人が立ち替わり入れ替わり話す.5時半~7時のところが5時半~7時半と2時間やり,それでもまだまだ終わらなかったが,定例の行動は時間どおりにやることも大切で,7時半に片付けをはじめた.この熱気を拡げてゆきたい.f:id:nankai:20190929165232j:plain

 いくと,もうTさんがきていた.彼は自分のポスターなどを立てて置き,自分でももって立っている.その4月の様子.それから横断幕やポールもきてそれを組み立て,こちらはポールを持つのを手伝ってきた.若い人らがばんばっているので,こちらはポールを持つのに徹している.まもなく,西宮の地元で知りあいのKさんもやってきてプラカードを持つ.彼は終わりのころにはマイクをもって喋ることもしていた.あんな風に喋る人なんだと見直した次第.
 この日の様子は梅田解放区にある.ここにはじめて参加した人が「私はプラカードをずっと持っていましたが、消費税や原発問題等自由に発言できる場作りができていて素晴らしいと感じました。」と書いているように,皆この場に出てきてそれぞれに手伝い,自由に思いの丈を語る.このような場を作ってきた園君らに礼をいいたい.
 先日の東電旧経営陣の無罪への怒り,大阪湾に汚染水をという維新の市長への怒りを語る人が多かった.福島原発の問題では『神道新論』のなかで,

 地震列島に核力発電所を作ることの危険性は従来からも指摘されてきた。にもかかわらず、東京電力は経済を優先し、万一の場合のためのできうる対策さえしていなかった。福島第一発電所の事故はそのうえで起こったことであり、自然災害を引き金にしたとはいえ、それはまさに人災であり、予測されたことに対する対策さえ怠ったという意味において、犯罪である。
 しかし、さらにそれが惨事であるのは、日本政府や東京電力が核汚染の現実を公にすることなく隠し、本来なら放射線管理区域として厳格な管理のもとにおかれねばならない汚染地域に、人をそのまま住わせていることである。また、避難のために移住する権利さえも保障されていない。このような情報隠し、情報操作によって、避けうる被曝が逆に拡大する。これがまさにいま広がっている。この意味でこれは三重の人災二重の犯罪である。

と書いたが,今回司法も動かし無罪を出させたことで,三重の犯罪となった.この判決の日の朝,大谷直人最高裁長官が官邸を訪問し安倍と会っている.無罪言いわたしの前に報告に行ったのだろう.これは,アベ政治の犯罪行為そのものである.

 さて自分の記録のために記しておく.自分にとっては大切な意味のあることごとであった。

 先週の日曜日22日は私自身の中学校の同窓会があった.拙著を三冊鞄に入れてもっていった.そして,京大理学部の教授をおえて私大で教員もしていたUemさん,宇治の小学校でも一緒だった人で,関西の大手企業の副社長(社長だったか?)で仕事を終えたUedさん,いまも歯科医師をやっているTさんにわたした.それから話をしていると,今もある大手の会社の社長をしているというNさんが『夜明け前』を2回読んだというので,拙著のことを話した.一昨日の26日,さっそく買ったとメールが来ていた.これに対して,

Nさんは覚えておられますか。昔学校から丹波橋へ一緒に歩いているとき,兄さんが手に入れられたとかで,ガモフの『1.2.3無限大』のことを言われました。それでさっそく手に入れた1960年発行のこの本が今も本棚にあります。あの本は難しかったですが,印象深い本でした。
中学のとき,ほんとうにNさんからいろいろ刺激を受けました。
この年になって,お返しできるほどのものではありませんが,また感想などお聞かせいただければ嬉しいです。

と返信した.中学のときはみな友達だった.私だけが彼らの世界から落ちこぼれたのである.そういうものが,かつての左翼言葉で語っても彼らの内に届くことはないだろう.そのような問題意識ももって書いた拙著はどうだろうか.届くだろうか.

 26日は杉村さんと大阪北の十三で会食をした.人民新聞に出す拙著の書評を書いてくれることになり,2日後さっそく原案がメールできていた.会ったとき杉村さんが訳されたイタリア現代思想の本『フューチャビリティー』をいただいたが,その扉に「不能の時代と可能性の地平」という言葉がある.まだ少し読んだだけだが,実はこの本の問題提起と拙著は深く関係している.この可能性はそれぞれの固有性に根を待たねばならず,拙著もまたこの可能性の扉を開ける試みなのだ.杉村さんはそこを評価してくれたのだろう.書評も記事なればここに紹介したい.
 欧州の現代思想に対し,それと同じ水準で非西洋からの問題提起と対話が必要な段階に来ている.いささかでもこの歴史の求めに応えてゆきたい.