再びドイツまで

  3月20日の早朝に伊丹空港を出て27日の朝に戻るという日程で,ドイツヘッセン州バート・ナウハイムの街に6泊5日で滞在してきた.ドイツにはこれまで3回行っている.2016年3月:ドイツ滞在(上)ドイツ滞在(下),2016年8月:ドイツまで,2017年7月:夏のドイツ
 もう次の機会はなさそうなので,この街とその近くでまだ行っていないところをまわってきた.雪がちらつく日もあるような寒さであったが,それでも春が近づいていることを感じさせる日和であった.
 まずは,バート・ナウハイムの旧市街をゆっくりと歩き,大きな教会が2つあるのだが,それらの中に入り見学した.25日の日曜日ももういちどその前を通ったが,午前11時半頃であったので,ミサが終わり多くの人が出てくるのに出会った.ドイツ人はこうして毎週日曜日に教会に出かけているのだ.
 この街を歩いていると,これまでは気づかなかったのだが,道沿いにベンチがあり何か上着が脱いでおいてある.何かと近寄ると,鉄製だろうか,コートの形の像がある.そしてその横に,「わが町のホロコーストの犠牲者」という碑があり多くの人名が刻んである.およそ300人である.ここはこれまでもよく通っていたし,この碑の前の通りの突き当たりの丘には戦争犠牲者の堂があり,これは前を通っていたが,こちらの碑には気づかなかった.この街にはユダヤ教会があるのだが,今回そこには行けなかった.
 こうしてドイツは,あの戦争の時代のような愚かなことは再びくりかえさないということが,人々の心に根づいている.日本のアベ政治のようなことは許されない.
 しかし今は,移民問題が,大きくのしかかっている.ドイツ人,トルコやアフリカ,イスラム圏から仕事を求めての移民,そして戦火を逃れてきた移民.職場でも地域でもドイツ人との格差がたいへん大きいようだ.ドイツ人は教会にゆくが,バート・ナウハイムではイスラム寺院は見かけない.彼らはどうしているのだろうか.また,フリートベルクにはモスクがあるということだが、今回そこは行けていない.
 移民はいわば現代のゲルマン民族大移動である.かつて,ゲルマン民族大移動が結局はローマ帝国を亡ぼしたように,今日の移民問題は西洋世界を大きく揺るがしてゆく.
 移民の人々は自分の故郷をどのように考えるのだろう.故郷では生きてゆけなくなってこちらに来た移民にとっては,やはり故郷はもういちど平穏になり生活できるなら戻るべきところなのだろう.現代の問題として考えさせられる.その欧州自体が,ポーランドなど旧東欧からの諸国とEU中央のドイツやフランスなどとの矛盾,カタルーニャの独立問題のような民族問題と,大きく揺れている.
 翌日は,バート・ナウハイムからドイツ鉄道DBで一駅南のフリートベルク (ヘッセン)の古城まで,麦畑の中の道沿いの歩道を歩いた.フリートベルクという街はバイエルン州にもあり,ヘッセン州のこちらはフリートベルク (ヘッセン) Friedberg(Hessen) と表している.
 古城の塔が遠くからも見える.それを目指して小一時間歩く.城の中には何かの学校もあり,落ちついたところであった.城門のまえのカイザー通りを散策し,DBの駅まで歩いてそれから一駅乗って戻ってきた.
 3日目は,バート・ナウハイムからDBで二駅北のブーツバッハにゆく.2年前にもこの街で降り立ったが,そのときはあまり時間がとれなかった.木組みの家々が立ち並ぶ広場がある.街中をあちこち歩いた.ブーツバッハはヴィキペディアにはないが,「これぞドイツのお家!圧巻「ブーツバッハ」の豪華な木組みの家を見に行こう」のような旅行記はいくつかネットで読める.
 これらの3つの街は,日本で出ているドイツ観光案内の本などには名前も出てこない.しかしこういう小さな街々こそ,いちばんドイツらしいかも知れない.3つの街の公式サイトである.バート・ナウハイムフリートベルグブーツバッハ
 このあたりはローマ帝国の時代,ローマの植民地のその境界にあったところである.その時代の城の一部が残っていたりする.またどの街も,古い建物を大切にしている.バート・ナウハイムでは街外れの畑地に集合住宅が建設中であるが,古い建物を壊して新しい建物を新築するということはまずないと言うことだ.三百年前や四百年前の木組みの古い家が古さを誇って今も大切に使われている.
 こういう街を歩いていると,老後は(もうすでに老後だが)ここに移住するのもいいか,という思いがうかぶ.しかし,とっさに出てくるのは,食べ物のことだ.ここには刺身もないし日本酒もほとんど売っていない.ソーセージと肉とワインだけでは,いっときはいいがすぐに飽きる.人の体と心は風土と共に作られる.やはり,しばしの滞在がいいと思う.
 4日目はフランクフルトに買い物に出かける.なんとなく大阪のような街である.空襲で焼け野が原となりそこから再建されてきたことも同じだが,それ以上に街の雰囲気が似ている.
 25日の日曜日はバート・ナウハイムの広い広い公園を散策し,そして向こうの26日朝にバート・ナウハイムを出て,フランクフルト空港から,今朝羽田経由で伊丹にもどってきた.家から家まで19時間ほどの旅であった.
 飛行場からの車の中で佐川氏の喚問を聞いた.予想通りであったが,これでごまかせる段階ではない.いや,ごまかさせてはならない.問題を見ぬいている多くの人は,このやりとりを聞いて,かえって,やらねばと思ったのではないか.次の時代はここから作ってゆくしかない.
 この10年で,フランス2回,ドイツ4回旅をした.フランス紀行3など.日本を見る目が少しだけ大きくなったようには思う.非西洋にあって最初に近代資本主義の世となった日本は,その意味で普遍的な問題をかかえている.それが今アベ政治に至っている.アベ政治の問題を大きいな枠組の中でとらえ,ここからの活路を模索することは,現代の,世界的な,あるいは人類的な課題である.
 日頃と違う時間の過ごし方をすると,思わぬ考えもうかぶ.夏までに仕上げるべき教育数学の講究録はだいたい頭の中できた.神道新論の概説もできた.金曜日には杉村さんらと,これからどうするか話しあう.この間うかんだことをこれからまとめながら,日々の雑用にも,戻ってゆきたい.

近畿財務局前行動

 昨日の夕方は,森友問題を考える会の呼びかけた近畿財務局前行動谷町四丁目まで行ってきた.仕事を終えて財務局から出てくる職員達に呼びかける.IWJの記録あり.

今回は、抗議行動ではなく、公務員として、国有地を私物化する側に立つのではなく、国民の側に立って私たちと共に頑張りましょう。というスタンスで職員に呼びかけたいと思います。また、命を絶たれた方への哀悼の気持ちも表現したいと思います。

という趣旨の集会であった.それぞれが喋り,最後に豊中市議の木村さんの音頭で,皆で声をあわせ,戻ってきた.
 そこに,かつて2010年の秋,小沢氏の陸山会事件の問題のころ一緒にデモをして知り、その後大阪宣言の会で一緒にやってきたMさんもきていた.私がその行動で知りあい,何度か梅田のかっぱ横町で一緒に飲みながらよく話をしたHさんが,最近メールも返信ないので,どうしたのかとMさんに聞いた.脳梗塞で結局昨年秋に亡くなった,と教えてくれた.
 Hさんのことは,新しい方からいえば,以下のところで書いている.「兵庫憲法集会」,「寒い中で」,「戦争法廃止を求める兵庫県民集会」,「秋の関電前行動」,「夏の終わりに」.ということは,2016年5月4日に神戸の集会で顔を見て,また一緒に飲もうやと声を掛けあったのが,最後だったのだ.こういう日記風の記録を残しておいたことは,私自身に意味があった.彼はいつも「小沢一郎を総理に」と書いたゼッケンをつけていた.それは,彼の存命中に実現することはなかったのだ.もういちど,かっぱ横町で一緒に飲みたかった.
 今日の午前中には私の『神道新論』の見本が来た.うち1冊をさっそく杉村さんに送った.彼の援助がなければ出版はできなかった.3月20日発売で,もうネットで予約も出来る.アベ政治に至る明治維新からの近代百五十年と,そしてアベ政治以後の日本を考える上での問題提起にはなるだろう.帯に

明治維新を主導した国学の徒は、何を夢見て、そして夢破れたのか? 明治維新に裏切られた“真の神道”を現代によみがえらせ、近代日本を逆照射する。

と書いているが,自分としては,明治維新から百五十年の今年を意識して準備したわけではない.二十年の準備期を経て,雑誌に寄稿し,それをまとめ書きたし一冊にしたら,その出版のときが、ちょうど明治維新百五十年の年になった.考えれば,米騒動は1918年,あの学生闘争は1968年,半世紀ごとであるのだ.この節目の年に自著を出すことになったのは,歴史の偶然と,そこに何か必然が働いているということを思わずにはいられない.

3.11の日に

 昨日は,朝から京都造形芸術大に行く.妻の姉,私と同い年の義姉の卒業制作展を見るためである.この人は60歳の時交通事故にあったが,一命を取りとめ,リハビリを経て日常生活が出来るようになり,それから京都造形芸術大通信課程の日本画科に入学,卒業となったのである.
 みごとな日本画であった.あの絵を描くのにどれくらいかかったのか聞くと2年弱であると言う.私が,『神道新論』を書くのにもそれくらいかかった.思えば私も4年前,5週間入院する大病をした.生死の境から生還して生き延びたのだから,やり残したことをしようという思いは同じであったも知れない.妻が大学院も行ったらというと,もう行くことにしているとのことであったそうだ.
 皆で昼を食べ,それから別れて私は円山公園音楽堂へ向かった.
バイバイ原発3.11きょうと」の集会に参加した.2500人の人で円山音楽堂はいっぱいであった.ちょうど行ったとき,福島県浪江町から関西に避難している人が「この集会に参加してそれで満足しないでください.政府と東電に責任をとらせ,原発をなくすために,明日からどうしてゆくのか.それを考えてほしい」という趣旨の発言の最中であった.
 戦後の歴代政府は,アメリカの核戦略に従いそのもとで,核兵器の製造能力を担保するために核力による発電所地震列島に展開してきた.そしてその運営を各電力会社におこなわせた.核政策における基本政策の誤り,ここに東電核惨事の基本原因がある.このゆえに,それは人災である.
 そして,地震列島に核力発電所を作ることの危険性は従来からも指摘されてきた.にもかかわらず東京電力は経済を優先し,あのときは柏崎原発の事故の後であり,やろうとすれば出来る万一の場合のための対策さえしていなかった.福島第一発電所の事故はそのうえで起こったことであり,自然災害を引き金にしたとはいえ,それはまさに人災であり,予測されたことに対する対策さえ怠ったという意味において,犯罪である.
 しかし,さらにそれが惨事であるのは,日本政府や東京電力が核汚染の現実を公にすることなく隠し,本来なら放射線管理区域として厳格な管理のもとにおかれねばならない汚染地域に,人をそのまま住わせていることである.また,避難のために移住する権利さえも保障されていない.このような情報隠し,情報操作によって,避けうる被曝が逆に拡大する.これがまさにいま広がっている.この意味でこれは三重の人災,二重の犯罪である.
集会宣言にも,「奪われた暮らし・健康・環境・地域社会を国と東電に償わせよう」が冒頭にあった.しかし,為政者はこれを教訓とするどころか,逆にいわゆるショックドクトリンとして,もういちど戦争への道を歩んでいる.かつてこの核惨事をテコに,当時の民主党政権を追放してアベが権力をにぎり,そして今に至っている.この日の集会はこれに対抗する一つの基盤であろうと思った.
 デモにも少し参加した.使い捨て時代を考える会槌田劭さんも,もう82歳ほどでおありだが元気に参加しておられた.あいさつしたが,こちらは帽子をかぶっており誰かわかってくれたかどうかはわからない.槌田さんとは1973年の秋の頃,もう一人理学部共闘会議の議長していた笈田さんと3人で,その後「使い捨て時代を考える会」となってゆく新しい運動の名前は何が良いだろうかと話しあったことがある.その後間もなく私は兵庫県で教員となり,笈田さんも故郷の福井に戻ったので,この運動はなにも手伝えなかったが,そんなこともあった.その後,3.11の後,彼がハンストをされているときに再会した.
 途中でデモから離れ,尼崎は塚口にいった.人民新聞編集長の山田さんの釈放祝いを隣近所の人や知りあいとするのでと誘われたのである.詳しくは書けないがいろんな人が来ていた.そのうちの一人の一文の載った編集書をもらったり,20日に出るこちらの本のことを話したり,ひとときを過ごして戻ってきた.

2月の終わりに

nankai2018-02-24

今日は午後半日かけて味噌の仕込みをした.こちらは言われるとおりするだけなのだが,豆を炊いてつぶし,糀と塩に混ぜ,大きな瓶につけ込む.はいりきらず,小瓶いくつかにも入れた.豆は六升はあっただろうか.これを縁の下の物置に収めた.こうして半年寝かせると,実にうまい味噌となる.もう10年以上毎年この時期に仕込んでいる.この味噌の美味さを知れば,もう市販の味噌は食べられない.
それから,大阪梅田へ.第4土曜定例の梅田解放区である.地元の駅で知りあいに会った.「お仕事ですか」と聞かれた.「ええ少し」と答えた.これは私にとって,仕事の一環なのだと言ってから思った.梅田では20人くらいの人が,しばらくの時間を語り歌う.4月からは第2,第4土曜にやってゆくとのこと.それは園君のこのツイッターにもある.園君はこの日は東京であった.私は,かつては,毎週金曜日の関電前集会に行っていた.そこでもいろいろ考える良い機会であった.その金曜行動でかつて見かけた人にここでも会う.梅田解放区は,体力の問題と用事が重なるという問題はあるが,出来るときは行こうと思う.そして春からはこちらも喋ろうかと思う.
例年この時期は授業が少なく,その時間に青空学園の諸々を制作してきた.去年今年は2年生の授業が週1回はあり,今年の先週は,シンポジュウムなどいろいろあって時間がすぐに過ぎた.今週は比較的時間があった.『神道新論』の再校や表紙などその他のことで,出版社とやりとりしてきた.本がだんだんと形になってくるのは不思議なものである.このように一日いろいろ考えることができるのは久しぶりである.
この1年半ほどは,今回の『神道新論』にまとまってゆく寄稿文を考えたり,それらを一つにまとめはじめたりと,こちらの方にほとんど気持ちがいっていた.それはよかったし,今しかできないことをやってきたのだが,それが一区切り着いて,次の課題が形をとるまでの間『高校数学の方法』を読みなおしている.この1年半を経て青空学園数学科のものを見直すと,また少し違って見える.更新履歴を見ると,『高校数学の方法』は2009年 10.19にPDF版を7.2版にして以来手をつけていなかった.
それで久しぶりに少し書き加え,2回直したので7.4版とした.それは夏までにまとめる講究録の準備も兼ねているのであるが,今後『高校数学の方法』の一つとして,論述の力をつけるための,基礎的な考え方,実地の訓練などをつくってゆきたい.この分野は,日本の教育ではまったく手薄である.それがまた,先般のシンポジュウムの討論をふまえたこちらの仕事である.この枠組や段取りを考えはじめているところである.
青空学園をやってきて,もう18年だ.長い時間が経った.このあいだ,それぞれPDFのページ数をメモして合計したら,3300ページあった.これをすべていつでも公開している.そのなかで『高校数学の方法』は青空学園の高校生向けの著作として代表的なものであるが,2001年から2002年の頃この主な部分をつくっていた.これを50代にやっておいてよかった.今ならとても無理だろう.学校で習ったことの上に高校生が考え方を勉強する書物としては,原理的に言って『高校数学の方法』以上のものは有りえない.そして,『高校数学の方法』を増訂できたら,そこに書いたものをまとめ,もう少し高い立場からこれを深め,シンポジュウムの講究録をつくりたい.
これは先のシンポジュウムでも話したのだが,4月から全国の小学校で「道徳」が,成績が評価される「教科」となる.アベ政治が道徳を教科にした.もっとも非道徳的なアベがしたのだ.これでまた不登校生が増える.道徳の時間に手を挙げてハイハイと答える生徒が,休み時間に誰かをいじっている.まわりもそれをはやしている.社会の縮図,アベ政治の縮図だ.何をやっているのだと,意識化できればまだしも,その前に体が拒絶し,朝起きられなくなる.要因は千差万別だが,不登校は学校と世のあり方への,体をはった抗議なのだ.不登校の子は皆まじめだ.
40年ほど前に教えた子らのクラス会にゆく.「僕らは勉強は苦手だったが,不登校生はいなかった.いつからこんなになったのか」と聞かれる.長期に欠席する生徒は,戦後政治の総決算をかかげた中曽根行革の数年後,90年代から増えてゆく.いわゆる格差を拡大した小泉改革を経て,人を金儲けの資源としか見ない新自由主義が世にゆきわたったアベ政治の2015年,病気を理由とせずに30日以上欠席した小中学生は,全国で125,000人を超えた.アベ政治は,実は学校もこのように変えてきてしまったのだ.
ではこの5年のアベ政治は,アベという個別の政治家のそのゆえに起こったことなのか.そうではない.いま日本政治に起こり続いているこの政治は,決してアベという政治家個人の問題ではない.資本主義が行きづまり,終焉に向かわざるを得ないというこの土台を,経済成長を前提とする既成の枠組で何とかしようとするかぎり,アベ政治は出てくる.経済第一でゆくかぎりアベ政治は必然である.経済から人を第一とする世に転換してゆかないかぎり,次は見えてこない.
人と人がつながるさまざまの取り組みをしているものたちが,自覚的につながってゆくことが始まりだ.『神道新論』もそのためにと書いた.この時代を超える新しい人が生まれてゆかねばならない.青空学園日本語科でやってきたのは,そのための基礎作業であった.古来より今に伝わる神道には次の時代をひらくその智慧が秘められている.『神道新論』はそれを日本語の基層から取り出すものである.経済第一の世に代わる世を様々のところで準備し,それがつながらなければならないところにきている.2月の終わりの時期に,それをつくづくと思う.

二つの集会

nankai2018-02-18

この木金土は二つの集会に参加した.一つは,13〜16日に京大数理解析研究所で開かれた,「教育数学第3回シンポジュウム」である.4年前のことは「言葉と数学は人間の条件」にある.私はそのうち15,16日に参加した.16日の午前にはこちらも「高等数学の教育において何を伝えるのか」ということで,いまの大学初年の数学教育の問題や,高校数学の教科書の問題を実際の経験から話した.また,不登校の問題から,今の日本の教育の基本的な問題にも話しを広げた.持ち時間が70分だったので,報告の題名にふさわしいところまでは語れなかったが,それは講究録の中で書きたい.これを夏までにつくらねばならない.まったく,これはこの方面での遺言のようなものだ.
青空学園で私を知った,四国高松の高校の先生がわざわざ私の話を聞きに京都まで来てくれていた.驚いたが嬉しくもあった.一緒に昼食を食べながらいろいろ話した.彼は戻ってすぐにDVDRを注文してきてくれた.その後,16日午後の討論をふまえて考えたが,こちらは青空学園においている『高校数学の方法』に,「日本語で書く論述」についてまとめ,その練習問題もつくらねばならないことがわかった.高校生,大学生の論述力の低下は,いろいろ語られていた.日本語は言葉である以上,論理をもち正確で巌密な論証を書くことが出来る.しかし日本の教育の中で,それが目的意識的に教えられることはほとんどない.ここを埋めるものをつくっておかねばと思った.
そして17日夜は,「人民新聞編集長・山田洋一さんを支援する会」の結成集会であった.16日の午前に神戸地裁で初公判が開かれた.こちらは京都にいて参加できなかったが,その日の午後,彼は釈放された.尼崎小田の集会会場の入口にいると,ちょうど彼がはいってきて,「よう」と抱擁.元気だった.というか,集会での彼らの話を聞くと,人民新聞は休むことなく発行され続け,その輪は広がり読者も増え,この弾圧は逆に彼やわれわれを鍛え,独立系の新聞として大きく飛躍する契機となった.まったくそうだと,つくづく思う.おそらく権力はそれを見てこれ以上拘留してもよけいに運動の輪が広がると判断したのだろう.イスラエルに住み,「イスラエルに暮らして」を人民新聞に掲載し続けている日本人のガリコ恵美子さん,門真市議の戸田さん,豊中市議の木村さんも参加し発言していた.山田さんがかつて活動していた尼崎の昔の仲間がその時代の映像を見せてくれたのも,関生労組の報告も,初めて聞く話でよかった.参加者は120人ということで大いに盛りあがった.
16日の集会と,17日の集会,参加者は今の世でいえばまったく違う人らである.私自身は,16日の集会の参加者の多くのようないわゆる学者ではない.この20年,私自身は青空学園をやっている者であるというところに立って,この世の中のいろいろなことをやってきた.その結果として,この2つの集会のその両方に係わり,内容的にはそれをつなぐところにいる.2つの集会の参加者に共通しているのは,それぞれの立場,位置からの,今の日本,あるいは近代日本に対する批判,これではダメだという観点である.
それをつなぎ,その明治維新から百五十年の近代日本を問うということで出版を準備している『神道新論』,その再校が13日に来ていて,この間それに朱を入れる時間がなく,ようやく今朝一通り終えることができた.昨夜の集会には,この本の出版をすすめてくれた杉村さんも来ていて,終わってから一緒に食事をすることができ,副題などいくつか残っていた課題についてヒントをいただいた.2日ほどかけてもういちど見直し送れば,三月末には出せそうである.18年ほどの青空学園の積みあげがあってのことだが,2016年の七月に雑誌に寄稿文を書いてから1年半ほどで一冊の本にするところまできた.
この本は,日本語の近代造語ではない基本的な言葉から近代日本を考えることが主題である.2つの集会のいずれの参加者にも問題提起になる.どれだけ伝わるか,こちらの力も問われるところである.そしてまた,一冊にまとめればまとめたで,次の課題が出てきて,考えるべきことは尽きない.山田さんが,三ヶ月独房にとらわれて,人とのつながりの意味を識ったという趣旨のことを語っていたが,近代の果てに,ようやくわれわれはそういうことを考えるところに来ているのかも知れないと思った.

S1会と祇園白川,吉田神社

 今日は理学部1組の同窓会のS1会があった.朝から家で豆まきをし,それから『神道新論』の校正に取り組んで小一時間,時間が来たので京都へ行く.阪急四条河原町で降りて,平安神宮西側にある会場の和食店まで歩いた.四条通りから三条通りの方へ,川端通りと東山通りの間を,祇園白川に沿って歩いた.ここはこれまで通ったことがなかった.こんな街があったのだと,京都の街の風情を味わいながら歩く.京都の街は自分の体の一部のような感じであるが,それでもこの祇園白川は知らなかった.吉井勇の歌

かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる

は知っていたが,あの歌の「したを水のながるる」川は高瀬川かと思っていた.ほんとにこの街を知らなかった.何ということかと思う.昔下宿していた京都市左京区北白川.その白川が,ここまで来て鴨川に流れていることも知らなかった.白川は,江戸時代はもっと川幅も広かったようだが,疎水ができて分断されていたのだ.京都には,まだまだよく知らない街があるのだろう.祇園白川の街に出会ったことがこの日一番の収穫であった.
 それから三条通りの交差点で東山通りを渡り,平安神宮の方に歩いて岡崎にある京料理の店の会場に行く.午後の1時からはじまり3時半頃まで,それぞれ近況を語りながら,ひとときを過ごした.S1つまり理学部1組のクラスはフランス語クラスで,50人強であったが,今日はそのうち11人参加であるから2割,よく集まり50年が経ったとは思われない.古希を迎えての集まりである.
 この前は,「S1会」に書いたように,2016年の暮れに近い頃であった.私が参加したのはこのときからであるが,世話人の人に聞くと,もうずいぶん前から集まっていたそうだ.こうして昔の同級と京都であうことになるとは,思ってもいなかった.「旧友に会う」に書いた彼も来ていた.明日から中国に行くと言っていた.皆で会食しながら,それぞれ喋った.あの時代にいろいろ進む方向を考え,独力で勉強して司法試験に通り今も名古屋で弁護士をしている人は,当時の経過と,そして今,福島の原発事故から名古屋などに避難している人の裁判などもやっているとのことであった.私も,ここに参加するに至った経過は話しておいたが,2011年2月に数理研の研究会に行ってS5だった彼に再会したのがはじまりだ.そのときのことは「人に会う(続)」にあるが,この流れは必然だとも思う.
 その後,茶店でお茶を飲んで解散し,皆と別れてから,東一条まで行って,吉田神社に参ってきた.吉田神社の節分祭は昔も行ったことがあるが,多くの露店が並び賑わう.今日も本当に多くの人出であった.吉田山の尾根を南の方向に歩いて東に曲がり去年も行った真如堂が向こうに見えるところまで行った.去年の新緑の頃,あちら側まで行った.そのときのことは,「新緑の候」に書いた.それからこのときと同じ道を歩いて東山通りに出て,京大病院前からバスで東山四条までゆき,戻ってきた.しばし京都にひたっていた時間であった.次に京都に行くのは,2月15,16日、数理研での研究会である.
 明日は,雨が降らなければ,7時半から公園の掃除である.それを終えて,なんとか明日中には校正の基本を済ませたい.多くの提案をしてくれた作品社の担当者にはほんとうに感謝している.そして,月曜からは,いろいろ動かなければならないことごとがある.これは先日も書いたように,今の市と地域との関係の中で出来るだけのことをすることだと考えている.

今年最初の梅田解放区

昨夜は定例の梅田解放区の集まりがあった.本当に寒かったが,20人近い人が集まり,街ゆく人に呼びかけ,トランペットが2つ,小太鼓1つで歌い,声をあわせる.土曜の夜の梅田界隈は,多くの人が行きかう.福井で反原発の運動を続けている人が,地震列島で次に地震があればどうなるのか.街ゆく皆さん,それを考えてほしい,と語っていた.立ち止まる人,写真を撮ってゆく人などもいるが,過半はそのまま通り過ぎてゆく.それでも声は届いている.
梅田に行くのに阪急電車に乗ったが,車内放送で「体の不自由な方など見かけられましたら,…などお声かけをお願いします」と,それも録音音声でしょっちゅう流す.聞くに堪えない.人が人を助けるのに何も阪急に言われることはない,放っておいてくれと思う.阪急電車は,その放送がどんなに偽善的で,聞くものを不快にしているかさえ分っていないのだ.
官僚の書いた作文を読むアベ首相の国会答弁などもこの偽善の典型だ.やっていることと読んでいる内容がまったく逆である.おまけに読み間違いがよくあるのでここまで落ちているかと思う.今の世を写して,このような偽善的な言葉が日本中にあふれている.彼らの使う偽善言葉の典型は福島地震の後に出てきた「絆」で、あの頃からひどくなった.もし,彼らが本音で語れば,辞任した松本文明内閣府副大臣のように「それで何人死んだんだ」となる.その本音を,偽善の言葉で覆いかくしている.これが今の世の有様である.
それに対して昨日語っていた人は,それぞれ自分の言葉で語る.こんな世のあり方にこれではいけないと思うものどうし,あるいはまた生きづらさをかかえるものどうし,心をこめて語りあい,そして言ったことには責任をとろう.大きく世が動く時代こそ,そういう言葉でつながろう.こちらは写真を撮ったとき以外は,横断幕をもっていて喋らなかったが,人の語るのを聞いていて,このように考えた.
定例的な街頭行動は,2012年から2015年まで毎週関電前に行っていたのが思い出される.あれは自分にとってもいろいろ意義深いことであった.昨日は朝一で『神道新論』の初校ゲラも届き,その校正もはじめなければならず,問題づくりの原稿仕事も締め切りに追われてはいるのであるが,街頭に立って考えることが,自分にとって大切なので,いってきた.そうしてよかった.そして明日からまた二年生の授業や三年生の直前講習であり,役所などとの交渉ごとも入りそうであるが,これからも他の予定と重ならないときはこの梅田解放区の取り組みに参加したい.できるうちだという思いもある.
最近,市との交渉ごとがいくつかある.市は地域から,下から政策を組むということをなかなかしない.こちらの意図を汲まないことも多々ある.しかし考えてみれば,アベ政治が上から下まで行きわたっている今日,各市町村も行政とはそういうものであるかもしれない.そういう全体状況も個別の積みあげであるから,できることはしておきたい.また,不登校の子の居場所づくりで学校の対応を聞いて思うのは,とりわけ公立中学のことであるが,学校というものがかつてのような,いろいろな子らがそれぞれに居場所をもてるところではなくなっていると言うことだ.そして,学校の教師自身が,そのことが見えないまでに,今の世の偽善におかされていると言うことだ.近代日本の結末は,福島の核惨事だけではない.日本中にその惨事を見ることができる.
これを革めるときは必ず来る.しかし,それがいつかはわからない.それだけに,ひとつの遺言としての『神道新論』は残しておきたい.いまは編集者がくれた貴重な提言を一つ一つ吟味して校正を確定している段階である.また,2月16日には,数学の方でも研究会で少し喋るが,討議をふまえてその後まとめる講究録は,高校数学の方面での遺言になるだろう.今年前半,この二つはしっかりとやっておきたい.