2018憲法集会

 昨日は,戦後憲法施行の1947年5月3日から71年目の日.こちらは神戸で夜の授業がある日.それで「戦争させない、9条壊すな!兵庫憲法集会」に参加した.大阪でもいろいろ集会があったようだ.うつぼ公園集合では若い人らによる自由と尊厳の祝祭があり,また北区の扇町公園では安倍9条改憲許さない!5.3おおさか総がかり集会があった.これらにも行きたかったのだが.
 神戸集会の会場は三宮東遊園地である.この辺りは公園の緑が深く落ちついた場所である.会場に行くと,先日土曜日に梅田であったばかりの元教員の彼がビラを配っている.「よく会うねえ」「こんな時代だからねえ」と挨拶して通り過ぎる.しばらくすると,昔の高校の同僚教員だったY中さんが声をかけてくれた.彼は今は西播の方で農業しているが,毎週木曜日は神戸に戻り,三宮でビラまきなどしている.今日はビラ配りの仲間と皆でこちらに来たとのことであった.農作業で腰を痛めたので,今日は集会だけとのこと.顔を会わすのは2年ぶりくらいかも知れない.
 午後2時から集会がはじまる.高石ともやさんの歌,講談師・神田香織さんの話しと続いていた.神田さんはいわき市出身である.「あの佐川氏もいわき市の人.最近は彼の方が有名ですが」と笑わせながら話を始める.最後は,福島の津波のとき,原発事故がなければ救われた人が1000人以上いたことを,いろんな人の言葉も伝えながら語っていた.参加者は主催者発表で9000人であった.昨年も来た人の話では、今年の方がずいぶん多いという.こういう情勢だからやむにやまれぬ気持ちで来た人も多いだろうと,相づちを打つ.こちらは後で仕事でデモにはいけないので,3時からはじまったデモの出発を見送り,4時前まで東遊園地にいた.
 5月3日のこの神戸での集会は2年前の2016年にも参加している.そのときのことは「兵庫憲法集会」に書いている.あのときは戦争法反対の最中で,参加者は11000人であった.もうあれから2年経ったのだ.あのときあの集会に誘ってくれた尼崎のHさんは,もういない.仲間の尼崎は東園田の人らの幟はあった.よけいにHさんへの思いが深くなる.
 2年前,戦争法に反対の運動は大きなうねりとなっていた.しかしまだ森友学園問題も加計学園問題も表には出ていなかった.近畿財務局が小学校の開設を計画した学校法人森友学園に当該国有地を随意契約で売却したのが,2016年6月.豊中市議の木村真さんは,同年9月に近畿財務局に売却価格の情報公開法による開示請求を求めたが,近畿財務局は非開示とした.これを不服として,2017年2月8日,国に対して決定の取り消しを求め大阪地方裁判所に提訴した.それでようやく毎日新聞朝日新聞が取りあげ,アベ政治による国家の私物化が表に出てきたのである.木村議員やその先輩の一村元議員らの粘り強い取り組みがなければ,あのまま闇の中であったかも知れない.
 ところで,西日本新聞のデスク日記で5月3日「今から5年前」という記事が載った.安倍晋三政権の政府高官が番記者たちに「極端なことを言うと,われわれは選挙で『戦争したっていい』と信任されたわけだからね.安全保障の問題とか,時の政権にある程度任せてもらわないと前に進めない」と語っていたというのである.こういうことはまだまだるあるのだろう.そう考えていたら,昨日は,希望の党中山成彬が「安倍さんの下で改憲し、日本を戦争のできる国にしよう」と講演している.朝日新聞
 アベ政権とはこういう人らが権力を握った政権なのだ.根なし草の浮ついた排外主義と差別主義,そして法や世の規範を顧みない傲慢な非人間性.これらはまさに,近代日本の行きついた果てなのだ.それを隠して隠してやってきたのだが,とうとうここに来てその本質が表に出てきた.それにしても,ここまでくるかと思ってしまう.非西洋で最初に近代化をした日本が,その果てにこのような無残な事態に立ち至った.西洋近代そのもののなれの果ての帝国アメリカに,ひたすら従属することで生存を可能にしてきたこの近代日本の支配体制が生み出したこの現実.これはまさに世界史的な大きな問題である.
 しかし,この先どうなるのか.まず,間違いなく起こるのは,2007年のいわゆるリーマンショック以上の経済崩壊である.年金資金など国民の金融財産をつぎ込んで経済崩壊をくい止めてきたアベノミクスであるが,いよいよその余裕がなくなってきた.リーマンショックとは逆に,今度は日本が先に崩壊し,それからアメリカが崩れるかも知れない.それでも支配者は国民に犠牲を強いて,ここを過ごそうとするだろう.しかしそれも最早無理である.日刊ゲンダイなども「そろそろ国民は覚悟が必要 アベノミクス後の日本経済」のような記事を配信しているが,アベ政治を終わらせるということは,ごまかし糊塗してきた粉飾経済から現実に戻るということでもあり,厳しい事態を引きうけるということでなければならない.
 かつて,自民党前尾繁三郎は死の五日前(1981年7月18日)の講演で「経済が低成長時代にならざるを得ない時代にどうするかの認識と、いかなる対策を採るべきかを,いろんなところで提言しているのに,指導者たちにその認識ができていない」と言い残し他界した.その後の政治はこの遺言を守るどころか,逆に政府も経団連軍需産業で利益を出そうとしてきた.先の戦争法も,仕上げとしての改憲も,そのためである.この道はしかし,破局に通じている.
 そのとき,人々のたがいの助け合いや,生きづらさをかかえたもののつながりや,産地と使うものを結ぶ市場に依らない経済とか,自立した労働者の職場支配とか,かつてアルゼンチンでおこなわれたアサンブレアといわれる職場や地域の評議会,このような様々の取り組みが,拡がるかも知れない.そうしないとやってゆけない.
 そしてそのとき,こちらがやってきたことはこの歴史の求めに応じ得ているのか.私は,いずれこのような近代の破綻とそこからの再生のときは来るものと考え,そのとき人が立ちあがってゆくために,近代が塗り込めてしまった日本語の本来の力を取り戻すことが必要不可欠と考え,この20年そのための基礎作業として,青空学園日本語科で日本語の再定義を重ねてきた.これを理解する人は多くはない.そして一定の段階に至ったので,はじめてそれをもとに考える道筋を書物にした.それが拙著『神道新論』である.一人でできることなど小さい.いろいろな人と語りあいたいと考えている.そして,これからの激動の時代に,少しは意味のあることをし置かなければと思った.いろいろ考えさせられる集会であった.最後の写真は市役所前から東遊園地への道.

歴史は動く

先週の21日の土曜は地元の自治会総会.それも終わり,25日の水曜日は山田人民新聞編集の公判.ようやく昨夜は定例の梅田での行動の日.夕方6時から7時半まで,道ゆく人に語りかけてきた.この一週間,宮古島石垣島に行っていた人,辺野古に行っていた人がそれぞれいて,その話もしていた.大手新聞に載ることない現地の様子である.近く人民新聞には載せるだろう.
もう40年前になるが,兵庫県では解放教育運動が一定の広がりをもっていた.その時代に研究集会などで顔を知っている人が,25日に人民新聞編集長の公判の傍聴でも会ったばかりだったが,その彼もやってきた.今も伊丹や尼崎で識字学級を続けているそうだ.こちらは不登校の子の居場所づくりをやっていることなどを話した.われわれの原点は,68年の学生運動と言うよりは,その後の,解放教育運動や部落解放運動で学んだことごとであるとつくづく思う.
一昨日は,板門店で南北首脳会談が行われた.実はこの方向はもう相当前から裏では進んでいた.共産党志位和夫委員長が

南北首脳会談での「板門店宣言」をもたらした力の一つは,韓国で起こった「キャンドル革命」だと思う.昨年9月,文大統領は国連総会演説で,「韓国の新政府はキャンドル革命が作った政府」とのべ,北朝鮮に対話と平和をよびかけた.称賛すべき外交的イニシアチブの根本には民主革命の力があったのだ.

言っている.その通りである.南北の対話への動きは,昨年秋の韓国は文在寅政権発足からはじまっていたのである.
ところがアベ政権は,昨年12月19日に,地上配備型の新たな迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の導入を決定している.導入には2基合計で最低2000億円かかり,運用開始は今から5年以上先になる.2017年度補正予算案に,調達先である米国に支払う技術支援費を盛り込んでいる.その一方で,アベ政権は社会保障費を1000億円削減している.社会保障を削り,教育費の公的負担を削り,労働者をただ働きさせ,その金をすべてアメリカの軍需産業に貢ぐ.これがアベ政府の実態である.
南北の分断は,日本による植民地支配と戦後の冷戦期の戦争の結果である.南北朝鮮はそれを自力で乗りこえようとしている.植民地支配下での抵抗闘争,戦後は例えば光州蜂起,そしてその上に「キャンドル革命」と文政権の成立,これを経ての南北対話.これは実に大きなことであり,歴史を一歩も二歩も前に進める.トランプアメリカ大統領も,客観的には,世界の警察国としての覇権帝国主義国から,アメリカのアメリカに立ち戻そうとしている.それで,文大統領の指導性に乗った.そして独りアベ政権のみがまったくの蚊帳の外であった.
アメリカは南北対話の進展をふまえ,韓国駐留軍を削減してゆくだろう.沖縄駐留の海兵隊も引き上げる方向である.それを必死に引き留めようとして,辺野古に巨大な基地を建設しているのが,外務省や自衛隊に主導されたアメリカの悪代官達であり,それに操られたアベ政府である.
どうして日本政治はここまで劣化したのか.最低限の道理さえ失われた.これを,われわれ自身の問題として考える.今年は明治維新から150年である.この150年,日本は西洋国家の制度を見よう見まねで取り入れてきた.憲法立憲主義三権分立基本的人権,….しかしどれ一つとして,韓国の人々のように自らの闘いで勝ち取ったということはなく,上から外から与えられたままであった.足が地につかず,諸制度は根なし草のままであった.この近代のあり方に根本の問題がある.
この根なし草近代を逆手にとって,そしてまた,かの戦争から教訓を引き出すことなく,福島の核惨事から教訓を引き出すことなく,逆にそれらを逆手にとって,メディアを支配し,福島の核惨事をショックドクトリンとして民主党から政権を奪い,今日に続くのがアベ政治である.行きつくところまで行かなければならないのか.それはしかし余りに犠牲が大きい.最悪に備えつつ,最善を尽くさねばならない.
現代の普遍の問題は,資本主義がもはや拡大の余地がなく,終焉をむかえているということである.そして朝鮮半島の南北対話は,それをふまえて次の時代を開くものである.中国もロシアも,帝国アメリカの衰退を見通して動いている.ドイツもそうである.その一方で,非西洋で最初に近代資本主義の世となったこの日本は,底の浅い根なし草の近代のままに,この終焉期を最初にむかえている.そしてこの先,帝国アメリカの没落期にすべての資産を吸い取られ,没落してゆく.歴史をたどればよくあることだが,それがこの日本においてこれからの十年のうちに起こってゆく.ここで人はどうするのかである.ある意味ではほんとうに問われるのは,これからである.
私は拙著『神道新論』の最終節で,
根のある地についた変革の思想を育てよ。東電核惨事は、やはり、もういちど人が日本語で生きることができる場を耕すことを求めている。この道を行くしかない。/協働の営みのなかで、ものと言葉を大切にし、温かなつながりを生みだそう。隣人同僚、山河草木、助けあって生きよう。そのところにこそ固有の言葉は育つ。日本語のことわりに根ざした思想を鍛え、新しい生き様を育てよう。
と書いた.これは,このように一度は没落し,国破れて山河もなしというところから,長い歴史をふまえて再生してゆこうとするわれわれの生き様を見越したものであった.新しい時代は,それを担う者が育たないかぎり,現実にはならない.その人の内実を作ることに,少しではあるが寄与することを願ってこの本を書いた.前を通り過ぎる若者立ちの群れを見ながら,私の言葉は彼らに届くのだろうかと,そんなことを考えていた次第である.写真は書斎の前の道を隔てた向かいにある竹藪のその境の金網越に咲いたツルニチソウ.

夜明け前にて

 昨日は,アベ政治を終わらせようとする全国の統一行動の日であった.大阪での行動である,おおさか総がかり集会実行委員会主催の「9条改憲NO!森友疑惑徹底追及!安倍内閣は総辞職を! 4.14おおさか総がかり 緊急集会&市民パレード」の大阪うつぼ公園の集会とその後のデモに参加し,そしてそのあと梅田に戻って梅田解放区の集まりと足を運んできた.今ここで街に出て声をあげなければならないという思いで,全国で多くの行動が取り組まれた.
 午後の1時から地元の寄りあいがあり,それから大阪に移動.あわてていて降りる駅を間違え,うつぼ公園に着いたときはデモの先頭が出始めたときであった.そのデモに加わり歩きはじめる.近くの人に集会の規模のことを聞くと,約2000人参集と主催者がいっていたとのこと.それから小雨の降るなか,難波まで行進する.若い人のリズムのある声と動きに乗せられて歩く感じであった.この日の集会とデモは,年寄りから若い人までアベ政治に反対する大阪のほとんどの組織が参加していた.梅田解放区の取り組みで出会う人らにもデモで一緒になる.難波の元町中公園で流れ解散.
 豊中市議の木村さん,もと社民党衆議院議員の服部さんの顔も見える.それぞれ集会で話しておられたようだ.かつて小沢さんの問題で一緒にデモをしていた何人かにも会う.5年前に作った「安倍退陣」の大きな幟にも久しぶりに出会い,持つのを手伝い,行進の半分くらいはこれを掲げていた.ここでこの幟がこんなに今のテーマになるとは,作ったときは思ってもいなかった.
 それから梅田に戻る.戻るとさっきまで難波にいた彼らがもう梅田で声をあげている.それに加わる.こちらはトランペットを吹き続ける人がいる.それを背景に,こちらもすこし喋る.
 アベ政治は日本の隅々までむしばんでいる.今年から小学校で,来年から中学校で,教科としての道徳の授業がはじまる.再来年からは高校の「現代社会」が廃止され,代わって「公共」が必修になる.「基本的人権の保障」や「平和主義」が高校の授業からなくなる.改定のときに文科省は「いじめの防止」も理由の一つにあげた.しかし,道徳を教科とすることで,いじめや不登校など学校のかかえる問題は,よけいにひどくなる.ますます不登校は増え,陰湿ないじめがはびこる.
 歴史上いちばん反・道徳のアベ政権が道徳を教科にした.学校は社会の縮図なのだ.道徳の時間にハイハイと答え,成績もいい生徒が,休み時間に誰かをいじっている.まわりもそれをはやす.まさにアベがやってきたことだ.こういうことがより日常化する.
 近代日本の教育は,なぜそんなことが言えるのかと根拠を問うことを教えず,言われたことをそのまま受け入れる人を作ってきた.原発が安全だといわれればそのまま受け入れる.その根拠を問い自分で考えれば,それが虚偽だとわかるのに,である.道徳の教科化はこの方向をいっそうおしすすめる.嘘と欺瞞と私利私欲のアベ政治を終わらせなければ,小学校も中学校もますます荒廃する.
 こちらは,こんなことを喋ってきた.土曜の夕方である.多くの若者が前を歩いて行く.彼らはどのように聞いてくれただろうか.それでも,御堂筋をデモした2000人のなかには,若い人が多かった.新しい感性でデモをする,戦争法反対のデモのころから,声をあげ行動する若者が出てきたことはまちがいない.私は拙著『神道新論』の中頃の節で

東京電力福島第一発電所の引きおこした核惨事は、かつての十五年戦争の敗北につぐ近代日本の第二の敗北である。二つの敗北は、明治維新に始まる日本近代の帰結であり、ここに帰趨する道程には,近代日本に内在する基本的な問題が通底している。

と書いた.その内容をもっと深めなければならないと考えてきたが,その基本的な問題の一つが日本の政治と官僚制の関係のあり方である.その負の側面がアベ政治で一気に現れた.そして終わりの節で

人を金儲けの資源としか見ず格差を拡大し、政治はうわべの官僚言葉を駆使して責任をとらず、福島の現実を覆いかくして原発を再稼働し、アメリカに従属して言われるままに貢ぎ続け、再び兵器産業で利潤を得ようとする。これがいまの世の姿である。

とも書いた.これもまたアベ政治として具体的にわれわれの前に現れている.このような形で現れるとは,まったくなんということか.そして,このアベ政治は,このような地平にまで至った日本近代を実際に動かしてきた官僚体制を,その内実において崩壊させた.アベ政治は単に安倍の特異性のゆえに現れたのではない.このことをおさえなければ,人を変えても同じことが続く.官僚機構の再生はまったくたいへんな問題でなる.また私は拙著の最後に,

 いまなお、世は夜明け前である。しかしまた、近代日本を痛恨をもってふりかえるわれわれは、新しい世の扉を開けうる位置に立っている。実にいまは、帝国アメリカが崩壊し、経済の時代から人の時代へ向かう一大転換期にある。この扉を開くための基礎作業、それが近代日本語をその根底から定義し直す再定義の試みである。/かつて人々は、神道のもとに、循環する共生の世を生きてきた。これを現代において見直し取りもどそう。こうして、閉塞した現代日本の旧体制をうち破ろう。うち破る力は、旧来の左右の分岐を乗りこえた新しい人の台頭、これである。そして、国家を超えてたがいの固有性を尊重しあう普遍の場を生み出そう。/島崎藤村『夜明け前』はいま、これらのことをひとりひとりに問いかけている。この問いかけに応えてゆこうではないか。

と書いた.確かにこの日のデモや東京での様子を見ると,少し時代の戸が開き始めている.しかしそれは同時にまた,困難な時代のはじまりでもあることを思わざるを得ない.何よりこれを一つの政治勢力にまとめてゆく核が弱すぎる.自分もできることはしたいとは思うが道は遠い.デモで御堂筋を歩きながら,拙著の自分の言葉を思い起こし点検し,こんなことを考えてきた次第である.街に出ての行動はほんとうにいろいろ考えさせられる.自分にとって街頭行動の意味は,いちばんここにあるような気もする.右の写真は裏に咲いた射干の花.昔,小学校の裏山の竹藪の日だまりに咲いていたのを今も覚えている.

再びドイツまで

  3月20日の早朝に伊丹空港を出て27日の朝に戻るという日程で,ドイツヘッセン州バート・ナウハイムの街に6泊5日で滞在してきた.ドイツにはこれまで3回行っている.2016年3月:ドイツ滞在(上)ドイツ滞在(下),2016年8月:ドイツまで,2017年7月:夏のドイツ
 もう次の機会はなさそうなので,この街とその近くでまだ行っていないところをまわってきた.雪がちらつく日もあるような寒さであったが,それでも春が近づいていることを感じさせる日和であった.
 まずは,バート・ナウハイムの旧市街をゆっくりと歩き,大きな教会が2つあるのだが,それらの中に入り見学した.25日の日曜日ももういちどその前を通ったが,午前11時半頃であったので,ミサが終わり多くの人が出てくるのに出会った.ドイツ人はこうして毎週日曜日に教会に出かけているのだ.
 この街を歩いていると,これまでは気づかなかったのだが,道沿いにベンチがあり何か上着が脱いでおいてある.何かと近寄ると,鉄製だろうか,コートの形の像がある.そしてその横に,「わが町のホロコーストの犠牲者」という碑があり多くの人名が刻んである.およそ300人である.ここはこれまでもよく通っていたし,この碑の前の通りの突き当たりの丘には戦争犠牲者の堂があり,これは前を通っていたが,こちらの碑には気づかなかった.この街にはユダヤ教会があるのだが,今回そこには行けなかった.
 こうしてドイツは,あの戦争の時代のような愚かなことは再びくりかえさないということが,人々の心に根づいている.日本のアベ政治のようなことは許されない.
 しかし今は,移民問題が,大きくのしかかっている.ドイツ人,トルコやアフリカ,イスラム圏から仕事を求めての移民,そして戦火を逃れてきた移民.職場でも地域でもドイツ人との格差がたいへん大きいようだ.ドイツ人は教会にゆくが,バート・ナウハイムではイスラム寺院は見かけない.彼らはどうしているのだろうか.また,フリートベルクにはモスクがあるということだが、今回そこは行けていない.
 移民はいわば現代のゲルマン民族大移動である.かつて,ゲルマン民族大移動が結局はローマ帝国を亡ぼしたように,今日の移民問題は西洋世界を大きく揺るがしてゆく.
 移民の人々は自分の故郷をどのように考えるのだろう.故郷では生きてゆけなくなってこちらに来た移民にとっては,やはり故郷はもういちど平穏になり生活できるなら戻るべきところなのだろう.現代の問題として考えさせられる.その欧州自体が,ポーランドなど旧東欧からの諸国とEU中央のドイツやフランスなどとの矛盾,カタルーニャの独立問題のような民族問題と,大きく揺れている.
 翌日は,バート・ナウハイムからドイツ鉄道DBで一駅南のフリートベルク (ヘッセン)の古城まで,麦畑の中の道沿いの歩道を歩いた.フリートベルクという街はバイエルン州にもあり,ヘッセン州のこちらはフリートベルク (ヘッセン) Friedberg(Hessen) と表している.
 古城の塔が遠くからも見える.それを目指して小一時間歩く.城の中には何かの学校もあり,落ちついたところであった.城門のまえのカイザー通りを散策し,DBの駅まで歩いてそれから一駅乗って戻ってきた.
 3日目は,バート・ナウハイムからDBで二駅北のブーツバッハにゆく.2年前にもこの街で降り立ったが,そのときはあまり時間がとれなかった.木組みの家々が立ち並ぶ広場がある.街中をあちこち歩いた.ブーツバッハはヴィキペディアにはないが,「これぞドイツのお家!圧巻「ブーツバッハ」の豪華な木組みの家を見に行こう」のような旅行記はいくつかネットで読める.
 これらの3つの街は,日本で出ているドイツ観光案内の本などには名前も出てこない.しかしこういう小さな街々こそ,いちばんドイツらしいかも知れない.3つの街の公式サイトである.バート・ナウハイムフリートベルグブーツバッハ
 このあたりはローマ帝国の時代,ローマの植民地のその境界にあったところである.その時代の城の一部が残っていたりする.またどの街も,古い建物を大切にしている.バート・ナウハイムでは街外れの畑地に集合住宅が建設中であるが,古い建物を壊して新しい建物を新築するということはまずないと言うことだ.三百年前や四百年前の木組みの古い家が古さを誇って今も大切に使われている.
 こういう街を歩いていると,老後は(もうすでに老後だが)ここに移住するのもいいか,という思いがうかぶ.しかし,とっさに出てくるのは,食べ物のことだ.ここには刺身もないし日本酒もほとんど売っていない.ソーセージと肉とワインだけでは,いっときはいいがすぐに飽きる.人の体と心は風土と共に作られる.やはり,しばしの滞在がいいと思う.
 4日目はフランクフルトに買い物に出かける.なんとなく大阪のような街である.空襲で焼け野が原となりそこから再建されてきたことも同じだが,それ以上に街の雰囲気が似ている.
 25日の日曜日はバート・ナウハイムの広い広い公園を散策し,そして向こうの26日朝にバート・ナウハイムを出て,フランクフルト空港から,今朝羽田経由で伊丹にもどってきた.家から家まで19時間ほどの旅であった.
 飛行場からの車の中で佐川氏の喚問を聞いた.予想通りであったが,これでごまかせる段階ではない.いや,ごまかさせてはならない.問題を見ぬいている多くの人は,このやりとりを聞いて,かえって,やらねばと思ったのではないか.次の時代はここから作ってゆくしかない.
 この10年で,フランス2回,ドイツ4回旅をした.フランス紀行3など.日本を見る目が少しだけ大きくなったようには思う.非西洋にあって最初に近代資本主義の世となった日本は,その意味で普遍的な問題をかかえている.それが今アベ政治に至っている.アベ政治の問題を大きいな枠組の中でとらえ,ここからの活路を模索することは,現代の,世界的な,あるいは人類的な課題である.
 日頃と違う時間の過ごし方をすると,思わぬ考えもうかぶ.夏までに仕上げるべき教育数学の講究録はだいたい頭の中できた.神道新論の概説もできた.金曜日には杉村さんらと,これからどうするか話しあう.この間うかんだことをこれからまとめながら,日々の雑用にも,戻ってゆきたい.

近畿財務局前行動

 昨日の夕方は,森友問題を考える会の呼びかけた近畿財務局前行動谷町四丁目まで行ってきた.仕事を終えて財務局から出てくる職員達に呼びかける.IWJの記録あり.

今回は、抗議行動ではなく、公務員として、国有地を私物化する側に立つのではなく、国民の側に立って私たちと共に頑張りましょう。というスタンスで職員に呼びかけたいと思います。また、命を絶たれた方への哀悼の気持ちも表現したいと思います。

という趣旨の集会であった.それぞれが喋り,最後に豊中市議の木村さんの音頭で,皆で声をあわせ,戻ってきた.
 そこに,かつて2010年の秋,小沢氏の陸山会事件の問題のころ一緒にデモをして知り、その後大阪宣言の会で一緒にやってきたMさんもきていた.私がその行動で知りあい,何度か梅田のかっぱ横町で一緒に飲みながらよく話をしたHさんが,最近メールも返信ないので,どうしたのかとMさんに聞いた.脳梗塞で結局昨年秋に亡くなった,と教えてくれた.
 Hさんのことは,新しい方からいえば,以下のところで書いている.「兵庫憲法集会」,「寒い中で」,「戦争法廃止を求める兵庫県民集会」,「秋の関電前行動」,「夏の終わりに」.ということは,2016年5月4日に神戸の集会で顔を見て,また一緒に飲もうやと声を掛けあったのが,最後だったのだ.こういう日記風の記録を残しておいたことは,私自身に意味があった.彼はいつも「小沢一郎を総理に」と書いたゼッケンをつけていた.それは,彼の存命中に実現することはなかったのだ.もういちど,かっぱ横町で一緒に飲みたかった.
 今日の午前中には私の『神道新論』の見本が来た.うち1冊をさっそく杉村さんに送った.彼の援助がなければ出版はできなかった.3月20日発売で,もうネットで予約も出来る.アベ政治に至る明治維新からの近代百五十年と,そしてアベ政治以後の日本を考える上での問題提起にはなるだろう.帯に

明治維新を主導した国学の徒は、何を夢見て、そして夢破れたのか? 明治維新に裏切られた“真の神道”を現代によみがえらせ、近代日本を逆照射する。

と書いているが,自分としては,明治維新から百五十年の今年を意識して準備したわけではない.二十年の準備期を経て,雑誌に寄稿し,それをまとめ書きたし一冊にしたら,その出版のときが、ちょうど明治維新百五十年の年になった.考えれば,米騒動は1918年,あの学生闘争は1968年,半世紀ごとであるのだ.この節目の年に自著を出すことになったのは,歴史の偶然と,そこに何か必然が働いているということを思わずにはいられない.

3.11の日に

 昨日は,朝から京都造形芸術大に行く.妻の姉,私と同い年の義姉の卒業制作展を見るためである.この人は60歳の時交通事故にあったが,一命を取りとめ,リハビリを経て日常生活が出来るようになり,それから京都造形芸術大通信課程の日本画科に入学,卒業となったのである.
 みごとな日本画であった.あの絵を描くのにどれくらいかかったのか聞くと2年弱であると言う.私が,『神道新論』を書くのにもそれくらいかかった.思えば私も4年前,5週間入院する大病をした.生死の境から生還して生き延びたのだから,やり残したことをしようという思いは同じであったも知れない.妻が大学院も行ったらというと,もう行くことにしているとのことであったそうだ.
 皆で昼を食べ,それから別れて私は円山公園音楽堂へ向かった.
バイバイ原発3.11きょうと」の集会に参加した.2500人の人で円山音楽堂はいっぱいであった.ちょうど行ったとき,福島県浪江町から関西に避難している人が「この集会に参加してそれで満足しないでください.政府と東電に責任をとらせ,原発をなくすために,明日からどうしてゆくのか.それを考えてほしい」という趣旨の発言の最中であった.
 戦後の歴代政府は,アメリカの核戦略に従いそのもとで,核兵器の製造能力を担保するために核力による発電所地震列島に展開してきた.そしてその運営を各電力会社におこなわせた.核政策における基本政策の誤り,ここに東電核惨事の基本原因がある.このゆえに,それは人災である.
 そして,地震列島に核力発電所を作ることの危険性は従来からも指摘されてきた.にもかかわらず東京電力は経済を優先し,あのときは柏崎原発の事故の後であり,やろうとすれば出来る万一の場合のための対策さえしていなかった.福島第一発電所の事故はそのうえで起こったことであり,自然災害を引き金にしたとはいえ,それはまさに人災であり,予測されたことに対する対策さえ怠ったという意味において,犯罪である.
 しかし,さらにそれが惨事であるのは,日本政府や東京電力が核汚染の現実を公にすることなく隠し,本来なら放射線管理区域として厳格な管理のもとにおかれねばならない汚染地域に,人をそのまま住わせていることである.また,避難のために移住する権利さえも保障されていない.このような情報隠し,情報操作によって,避けうる被曝が逆に拡大する.これがまさにいま広がっている.この意味でこれは三重の人災,二重の犯罪である.
集会宣言にも,「奪われた暮らし・健康・環境・地域社会を国と東電に償わせよう」が冒頭にあった.しかし,為政者はこれを教訓とするどころか,逆にいわゆるショックドクトリンとして,もういちど戦争への道を歩んでいる.かつてこの核惨事をテコに,当時の民主党政権を追放してアベが権力をにぎり,そして今に至っている.この日の集会はこれに対抗する一つの基盤であろうと思った.
 デモにも少し参加した.使い捨て時代を考える会槌田劭さんも,もう82歳ほどでおありだが元気に参加しておられた.あいさつしたが,こちらは帽子をかぶっており誰かわかってくれたかどうかはわからない.槌田さんとは1973年の秋の頃,もう一人理学部共闘会議の議長していた笈田さんと3人で,その後「使い捨て時代を考える会」となってゆく新しい運動の名前は何が良いだろうかと話しあったことがある.その後間もなく私は兵庫県で教員となり,笈田さんも故郷の福井に戻ったので,この運動はなにも手伝えなかったが,そんなこともあった.その後,3.11の後,彼がハンストをされているときに再会した.
 途中でデモから離れ,尼崎は塚口にいった.人民新聞編集長の山田さんの釈放祝いを隣近所の人や知りあいとするのでと誘われたのである.詳しくは書けないがいろんな人が来ていた.そのうちの一人の一文の載った編集書をもらったり,20日に出るこちらの本のことを話したり,ひとときを過ごして戻ってきた.

2月の終わりに

nankai2018-02-24

今日は午後半日かけて味噌の仕込みをした.こちらは言われるとおりするだけなのだが,豆を炊いてつぶし,糀と塩に混ぜ,大きな瓶につけ込む.はいりきらず,小瓶いくつかにも入れた.豆は六升はあっただろうか.これを縁の下の物置に収めた.こうして半年寝かせると,実にうまい味噌となる.もう10年以上毎年この時期に仕込んでいる.この味噌の美味さを知れば,もう市販の味噌は食べられない.
それから,大阪梅田へ.第4土曜定例の梅田解放区である.地元の駅で知りあいに会った.「お仕事ですか」と聞かれた.「ええ少し」と答えた.これは私にとって,仕事の一環なのだと言ってから思った.梅田では20人くらいの人が,しばらくの時間を語り歌う.4月からは第2,第4土曜にやってゆくとのこと.それは園君のこのツイッターにもある.園君はこの日は東京であった.私は,かつては,毎週金曜日の関電前集会に行っていた.そこでもいろいろ考える良い機会であった.その金曜行動でかつて見かけた人にここでも会う.梅田解放区は,体力の問題と用事が重なるという問題はあるが,出来るときは行こうと思う.そして春からはこちらも喋ろうかと思う.
例年この時期は授業が少なく,その時間に青空学園の諸々を制作してきた.去年今年は2年生の授業が週1回はあり,今年の先週は,シンポジュウムなどいろいろあって時間がすぐに過ぎた.今週は比較的時間があった.『神道新論』の再校や表紙などその他のことで,出版社とやりとりしてきた.本がだんだんと形になってくるのは不思議なものである.このように一日いろいろ考えることができるのは久しぶりである.
この1年半ほどは,今回の『神道新論』にまとまってゆく寄稿文を考えたり,それらを一つにまとめはじめたりと,こちらの方にほとんど気持ちがいっていた.それはよかったし,今しかできないことをやってきたのだが,それが一区切り着いて,次の課題が形をとるまでの間『高校数学の方法』を読みなおしている.この1年半を経て青空学園数学科のものを見直すと,また少し違って見える.更新履歴を見ると,『高校数学の方法』は2009年 10.19にPDF版を7.2版にして以来手をつけていなかった.
それで久しぶりに少し書き加え,2回直したので7.4版とした.それは夏までにまとめる講究録の準備も兼ねているのであるが,今後『高校数学の方法』の一つとして,論述の力をつけるための,基礎的な考え方,実地の訓練などをつくってゆきたい.この分野は,日本の教育ではまったく手薄である.それがまた,先般のシンポジュウムの討論をふまえたこちらの仕事である.この枠組や段取りを考えはじめているところである.
青空学園をやってきて,もう18年だ.長い時間が経った.このあいだ,それぞれPDFのページ数をメモして合計したら,3300ページあった.これをすべていつでも公開している.そのなかで『高校数学の方法』は青空学園の高校生向けの著作として代表的なものであるが,2001年から2002年の頃この主な部分をつくっていた.これを50代にやっておいてよかった.今ならとても無理だろう.学校で習ったことの上に高校生が考え方を勉強する書物としては,原理的に言って『高校数学の方法』以上のものは有りえない.そして,『高校数学の方法』を増訂できたら,そこに書いたものをまとめ,もう少し高い立場からこれを深め,シンポジュウムの講究録をつくりたい.
これは先のシンポジュウムでも話したのだが,4月から全国の小学校で「道徳」が,成績が評価される「教科」となる.アベ政治が道徳を教科にした.もっとも非道徳的なアベがしたのだ.これでまた不登校生が増える.道徳の時間に手を挙げてハイハイと答える生徒が,休み時間に誰かをいじっている.まわりもそれをはやしている.社会の縮図,アベ政治の縮図だ.何をやっているのだと,意識化できればまだしも,その前に体が拒絶し,朝起きられなくなる.要因は千差万別だが,不登校は学校と世のあり方への,体をはった抗議なのだ.不登校の子は皆まじめだ.
40年ほど前に教えた子らのクラス会にゆく.「僕らは勉強は苦手だったが,不登校生はいなかった.いつからこんなになったのか」と聞かれる.長期に欠席する生徒は,戦後政治の総決算をかかげた中曽根行革の数年後,90年代から増えてゆく.いわゆる格差を拡大した小泉改革を経て,人を金儲けの資源としか見ない新自由主義が世にゆきわたったアベ政治の2015年,病気を理由とせずに30日以上欠席した小中学生は,全国で125,000人を超えた.アベ政治は,実は学校もこのように変えてきてしまったのだ.
ではこの5年のアベ政治は,アベという個別の政治家のそのゆえに起こったことなのか.そうではない.いま日本政治に起こり続いているこの政治は,決してアベという政治家個人の問題ではない.資本主義が行きづまり,終焉に向かわざるを得ないというこの土台を,経済成長を前提とする既成の枠組で何とかしようとするかぎり,アベ政治は出てくる.経済第一でゆくかぎりアベ政治は必然である.経済から人を第一とする世に転換してゆかないかぎり,次は見えてこない.
人と人がつながるさまざまの取り組みをしているものたちが,自覚的につながってゆくことが始まりだ.『神道新論』もそのためにと書いた.この時代を超える新しい人が生まれてゆかねばならない.青空学園日本語科でやってきたのは,そのための基礎作業であった.古来より今に伝わる神道には次の時代をひらくその智慧が秘められている.『神道新論』はそれを日本語の基層から取り出すものである.経済第一の世に代わる世を様々のところで準備し,それがつながらなければならないところにきている.2月の終わりの時期に,それをつくづくと思う.