奄美大島まで

 この時期は夏真っ盛りのときであるが,今年の夏はどうか.関西では夏空は見えず,曇りか雨の日が多かった.ようやく今日あたり,夏空がでそうである。それでもやはり気候が変わってきている.
 先週は23日火曜日から26日金曜日まで奄美大島三泊四日の旅をしてきた.日常に戻っても,亜熱帯の島の感覚は残り,日々が少し違う感じになっている.島では,トカゲかカナヘビか分からないが,こちらにはいないものも見た.わかる方いれば教えてほしい.
 奄美大島は次男一家が連れて行ってくれた.孫とあわせて六人の小旅行であった.伊丹から奄美空港まで一時間半でゆけるのだ.そこから車で二十分ほどの奄美大島北の方の龍郷町芦徳にある宿舎に泊まって,車であちこちまわった.
 五年前には西表島に連れて行ってもらった.それ以来である.もう五年経ったのだとも思うが,そのうちの三年,彼らはドイツにいたのだし,こちらが四回ドイツを訪ねたのだ.ちょうどその時期,こちらは雑誌への寄稿とそれをまとめた自著の出版もした.また孫もふえた.その前の年,2013年の秋には器質化肺炎で五週間入院した.死ぬ気はしなかったが,それでも大病であった.そのような五、六年をふり返ることにもなった.
 奄美大島は亜熱帯の気候であるが,沖縄とも違い,また鹿児島とも違う風土である.そして、部外者の私にその意味は言えることではないが、いろんなところで琉球と日本に挟まれた複雑な歴史の跡を見た.日頃とは異なる時間の中に身をおいて,いろいろなことを思い考える時間がもてた.二五日には南端の古仁屋の港までいって,船で海中の魚や珊瑚を見るのもした.大島紬の老眼鏡入れを買った.これはたいそう気に入っている.

 途中,名瀬の町で昼を食べたが,山本太郎の選挙ポスターがあちこちにあった.ガイドの本で見つけて行った泥染めの店にも,山本太郎の写真の入ったパンフが置いてあった.
 山本太郎の選挙ポスターはわが家の塀の壁にも貼っていたのだが,その山本太郎となかまたち,今回の参院選で大きな勝利であった.二人の障害者が代議士となった.
 昔の市芦教員時代の同僚で奄美大島出身の人に,奄美にいってきたことをメールしたら,返信で奄美の故郷のことを書いた後に,「今回の選挙は面白かった。車いすの国会議員が二人選ばれたのでここから出発です。みんなで新しい政治を作っていけるかもしれません。」とあった.一緒に障害者解放教育に取り組んだ仲なので,彼が山本太郎に期待する気持ちはよくわかる.

 左派を自認する人々のなかでは、いわゆるポピュリズムへの違和感、「れいわ」という党名への反発などがあって、賛同よりも警戒感が表明されている.左派の源流ともいうべきロシア革命の前から続く左翼は,資本主義にまだ拡大の余地があった時代にどのような方向で経済を拡大するのかをめぐり,資本家階級とは異なる立場と方向を体現するものであった.
 しかし、もはや資本主義そのものに拡大の余地がなくなったいま,もういちど立ちかえるべきは「人」なのである.人はいること自体に尊厳がある.このことをかつての同僚ともいっしょに活動した,解放教育運動のなかで学んだ.

 奄美から戻ってきた翌日の昨夜の第四土曜日は定例の梅田解放区の日であった.いつもより一つ後の電車になったが,何とかはじまるころに行くことができた.もう横断幕はでていた.そして,端の人と交代していつものように横断幕をもってきた.
 この日は,京都から,米軍xバンドレーダー基地反対・京都連絡会の運動をやっている人も来て,ギターで歌いながら,京都にただ一つある米軍基地のことを訴えた.毎週,辺野古基地に反対する街宣を梅田でやっている人も,そちらが終わってからこちらに来て,みなをリードして声をあげていてくれた.誰でもここに来て話そうという呼びかけは,少しずつ輪が広がっている.

  経済から人の時代への転換の歴史がはじまり,それを体現する政治勢力の出現は歴史の要求である.「左右ではなく上下」というのも,経済ではなく人,ということである.山本太郎となかまたちの活動は、人が人として存在することの意味を問うた.ここに共感が広がった土台がある.それは確認する.そのうえで,これがどのように動いてゆくかは,すべてこれからの問題である.
 資本主義の終焉の中で次の時代をどのようにひらいてゆくのかという普遍的問題と,非西洋で最初に近代化した日本のその近代のなれの果てとしてのアベ政治をどう乗りこえるのかという固有の問題と,それが合わさり重なり動いてゆく.街頭にも立ち,それを見とどけ,せめてこの時代を書き記してはおきたい.
 奄美から帰って昨日の昼は仕事の整理もした.問題づくりの原稿の改訂などの締め切りの一覧も作った.それをこなしながら,日々の営みに戻ってゆこう.ときどきあの風土の感覚がふっとよみがえる.奄美での時間の中で,自分はほんとうに小さなものだと思った.いろいろなことをしなければならないとやってきたつもりではあるが、あの自然風土の中に身をおいて思えば、それは小さなことであった.それがつくづくわかって,よかった.これからの自分のふりかえりのために,この間の思いを書いておいた次第である.

夏の数日

 この数日,仕事ではないことごとでいくつか出かけてきた.

 木曜日十一日の夜は梅田まで行って,山本太郎の街頭演説を聴いてきた.山本太郎の活動は議会選挙の運動として新しい.参院選に十人の候補を立てた.参院選公示後の街頭演説を沖縄からはじめて東に進み大阪に来たのだ.ヨドバシカメラの向かい側大阪駅前には多くの人が集まっていた.この場所にこれだけの人が集まるのは,戦争法に反対する集会の二〇一五年の秋や二〇一六年五月のの憲法集会以来である.二〇一五年秋のことは「やつらを通すな」にある.あのとき,結局やつらは通り,そのアベ政治はいまもって続いている.
 山本太郎は自分の言葉で語る.新自由主義がいきわたり人の価値が生産性ではかられる今のあり方を変えよう,人のいのちを大切にする世に変えてゆこうと呼びかける.そして,消費税廃止と累進課税の強化を軸として,奨学金返済免除などを含む政策を語る.立候補した十人立候補した十人の言葉はいろいろなところで聞けるが,みな自分の言葉で語っている.それが聞くものの心を打つ.芸人だから話がうまいという人がいるが,それはちがう.彼らは自分の言葉で喋っている.
 今回の参院選ではもう一人、労働者の使い捨てを許さない! と全国を駆け回る大椿ゆうこの話も人の心をつかむ.これらの人たちが表に出てきたのは時代の要請、歴史の要求だ.それに応えた彼らの周りでは多くの人が動いている.

 そして土曜の十三日は定例の梅田解放区の日.この日も雨交じりでガードの下に移動する.道の向こうの五十メートルほど離れたところで,大阪維新の会が街宣をはじめる.参院選候補も街宣車でやってきて手を振っている.スピーカの音量はこちらが圧倒的に大きい.維新政治とは,カジノであり万博誘致であり水道民営化であり,大阪を民間企業に売りわたすものだ.維新の吉村知事は慰安婦像のことでサンフランシスコとの友好都市を解消した.丸山穂高衆議院議員や長谷川豊候補は維新そのものである.これを語る.維新の用心棒らしきものが来て偵察したりしていたが,そのうち維新は退散した.

 もう近代主義左翼はこの時代の要請にこたえることはできない.近代主義とは近代資本主義が作りだした世界観であり,日本においては明治以降の思想潮流,その枠組の中の左派、私はそれを根なし草左翼というが,もはやそれは歴史の遺物でしかない.人の原理に立脚し,資本主義の現在を打つ破ってゆく思想と運動,それが歴史をつくる.
 もとよりアベ政治が牛耳る今回の選挙の結果はわからない.また,選挙だけで世が変わるわけではない.しかし,ここで生まれた人の動きは次につながる.このようなことを通して新しい人のつながりが生まれ、選挙も一つと方法として、世を動かす力を蓄えてゆく.量の蓄積が質を変える.一人一人が自分の居場所から時代の要請に向きあい,そして街頭に出て語る,これを続けてゆきたいし,こちらもできるところまで手伝うつもりである.

 日曜日の十四日は私にとって年にいちどの京都相国寺僧堂での座禅の日である.在家居士の参禅会である智勝会のOB会があった.阪急烏丸四条で降りて四条通りに上がる.祇園祭も近く,山鉾が並んでいる.この季節の京都は,体が覚えているという感じで懐かしい.平安時代に鎮魂の祭りとしてはじまった祇園会,千年の歴史である.相国寺で再び座禅をするようになった経過などはくりかえさないが,一昨年のことは「今年も相国僧堂」に書いた.昨年は「宵山の日の参禅」に書いたように天気もよかった.今年は雨がちであった.
 この日少し早めにゆくと,ちょうど鐘楼の下にある横椅子に座っていた二人のうち一人が,拙著『神道新論』を読んだと声をかけてくれた.私より九歳年上の医者である.いろいろ意見も聞かせてもらった.今の日本への危機意識ものべられた.それで「分水嶺にある近代日本」の載っている雑誌も送ることにした.それぞれの考えは尊重して,明治以来の日本近代について,考えるところを出しあい対話したい.拙著の後書きに,「いろんな人と対話ができればと思う。大きく世が動いてゆく時代にこそ、言葉を大切にして語りあう文化の根づくことを願っている。」と書いた.その思いはいよいよ大きくなっている.
 そして相国寺専門道場のある大通院に入った.ここは観光客は入れない.二時に相国僧堂書院の広間に集合.それから読経の間に移動し雲水さんの木魚にあわせてみなで読経をおこなう.それから僧堂に入り,座禅を二柱(線香一本が一柱で二十分ほど)おこなう.そして老師の臨済録をもとにした提唱.それからまた広間に戻りみなで薬石,つまり精進料理をいただきながらの交流会と時間を過ごしてきた.この日は先日亡くなられた 上田 閑照 先生の供養も兼ねたOB会となった.相国僧堂での在家居士の座禅は近くは西田幾多郎の弟子の西谷啓治先生以来であるが,古くは室町時代からあるのではないかと思う.京都での長い伝統の営みである.
 座禅会の散会のあと,Sさんと小雨の中を相国寺境内から同志社大学の横を通って歩いた.二〇一四年の秋にSさんの案内で永観堂などをまわった.そのときの記録がここにある.もうあれから五年がたつのだ.また今年の秋においでよと言ってくれた.そして地下鉄の今出川駅まで戻った.京都の街のなか,同志社大学の横にこのようにおちついた場所がある.写真は相国寺法堂である.

 これが私の今の時代のなかでの週末から日曜であった.こういう時間を過ごして,いったい自分は何をやってきたのだろうと考える.『神道新論』は一つのことを書き置いたとは言えるが,それはまだまだ小さなことである.非西洋で最初に近代化した日本の経験をほんとうに振り返れているかといえば,まだ緒についたばかりである.
 でも人はこうして,何らかの道をたどり歩むのだとも思う.まさに「大きな歴史のなかの小さな歴史」のなかの数日であった.僧堂と再会したのは福島の地震の後であり,『神道新論』を公にしたのはさらにその後,あの大病の後であることを思えば,ほんとうに感慨深い.

励まされて

 この年になると小さなことでもいろいろ励まされる.

 昨日四日は私の七二歳の誕生日.この日を覚えていてくれた自治会の副会長が誕生祝いにと朝方日本酒をもってきてくれた.そしてその日の午後,大津に住む妹からお中元をかねて近江の地酒を贈ってきてくれた.「体に気をつけてまだまだご活躍ください。」とのこと.それぞれにありがたい.
 七月四日はアメリカ独立記念日.昔はそれと同じ日であることがなんとなく自慢であった.いま思うことは,アメリカの人々に独立のときのこころざしを取りもどしてもらいたいということである.しかしそう言うと,ただちにそれは日本自身の問題に返ってくる.明治維新に生涯を捧げた国学の徒の思いを,近代日本は裏切った.それが『神道新論』の導入となる第一章であった.

 今日は朝,次のメールがきていた.

 Kと申します。和算の勉強中、御サイトの書庫「幾何分野」の「デカルトの円定理と一般化」や「パップスの定理」などにたどり着き混迷の中から抜け出すことができました。
 有益かつ貴重な資料を惜しげもなくご提供くださり心より感謝しております。有難うございました。      二〇一九年七月五日

 このようなメールにはほんとうに励まされる.ありがたい.青空学園もこの夏で二〇年になる.数学科ではA4版のPDFで3200枚になるものを,HTMLで公開し,PDFも自由にとれるようにしてきた.数学が少しでも根づくようにと願って無償で公開してきた.これは私の信条にもとづくものである.教科書風の数学書は多くある.しかし,高校から大学範囲の数学を,学問としての立場からそれなりに探究し書き表したものはほとんどない.そのような試みの跡を残しておこうと,これをやってきた.
 こちらの意図に合致した感謝のメールは,やってきたことが無駄でないことの証しであり,逆にこちらが感謝する次第である.
 青空学園数学科の訪問者数は普通一日で120ほど増える.昨日からは260増えている.それだけの人がここに来て,何かを考えている.その事実から,逆にまた責任も大きいことを思う.こんな話題で書いてみてほしいなどあれば,意見を寄せてもらいたい.

 そしてもう一つ励まされるのは山本太郎とその仲間たちの崛起である.彼ら10人の言葉は,これまでこのように表に出ることはなかった.この参議院選,そして次の衆議院選をつづくなら,新しい段階を拓くのではないか.「分水嶺にある近代日本」を今年の初めに書いたが,こちらの方向が現実化するとはなかなか思えなかった.これについては,書きつづけたいが,大いに励まされている.
 写真は火曜日に京都で食べたハモの天ぷら.京都の夏である.

梅雨はどこへ

 梅雨の時節のはずなのに,雨が降らない.降るときは夕立のような通り雨である.土曜日は定例の梅田解放区であったが,パラパラとし始めたのでガード下に移動.すると,猛烈な雨となり,しかし七時半頃はもう上がっていた.やはり気候は変動していることはまちがいない.このような気候変動は,この地球では何度も何度もあったのだろう.
 その梅田解放区,こうしてやっていると時代を反映していろんな人がやってくる.一昨日は,手拭いを頭に巻いた1人の青年が立ち止まり,話しかける.彼もいろいろ今の政治に言いたいことがあるようだった.それでマイクを手にして話していった.また,鳥取だったか遠くからきた青年も,ネットで見たと,この梅田解放区を知っていて,マイクで話していった.二人とも今の政治に怒りをもっている.そのことをはなしていた.

 昨日の日曜日は,G20に反対するデモなどが大阪であった.これは学生中心.大阪にいきたかったのだが,仕事が混んでいて,地元の,アスベスト飛散に対する取り組みを進める人たちの「西宮こしき岩アスベスト裁判」報告集会に顔を出してきた.皆さんの旧夙川学院短大の解体におけるアスベスト飛散訴訟があったから,私の地元での夙川学院中学高校校舎解体工事は,業者とも話しあいをすすめ,工事協定書も結んで,いちおう飛散させることなく解体工事は終わった.
 これらのことから,私もいろいろアスベストの問題を知ったのだが,それで思い起こされるのは,阪神淡路大震災のときのことだ.崩壊したビルの合間を歩いていた.みな多量のアスベストが飛散するなかを歩いたのだ.崩壊した建物の撤去作業も何も防塵せずになされていた.あれから20年以上経ち,あのとき吸い込んだアスベストを原因とする病変が現実化するときになっている.

 今は週に3回夜授業をし,自宅で問題づくりに取り組んでいる.三系統の問題を作っている.問題を作り始めると,寝が浅くなる.いろいろな考えが寝ているときにうかぶのだ.それがいつもいい材料になる.起きているとき思いつけばいいのだが,起きているときというのは,分かっていることを点検しながら書いてゆくときで,新しいことを思いつくのはいつも明け方か,犬と散歩しているときなんかなのだ.
 あまり根をつめるとよくない.六年前は結局夏の疲れも重なって秋になって肺がやられ,五週間入院した.今も肺に傷は残っている.ただあのときと違うのは,今は薬を何も飲んでいないことだ.あの入院の前はすぐ漢方の風邪薬を飲んだ入りしていた.退院から一年かけてステロイドを減らし,治癒したときから以降この五年,薬はやめた.いちど食べ過ぎて消化補助剤を飲んだだけだ.
 この数日咳が出ている.咳が出れば漢方薬,が昔の自分だった.いまは,節蓮根の粉末を湯にといて飲む.普通は数日でなおる.それでも六年分の年齢が加算されているから気をつけなければならない.いずれにせよ,人に迷惑はかけたくないという気持ちである.

 いろいろ考えることがあるのだが,少しずつ書きたしてゆこう.

季節の味わい

 週に一度,京都まで行く.そのあと,烏丸塩小路東角の行きつけの店にゆく.私のまさにささやかな楽しみであり贅沢である.もうこの店にいきはじめて二十年以上になるのではないか.前の店長の手ずくり一品が気に入って,行くようになった.どこも人手不足で,この店長,引退したのにまた店を手伝っておられる.
 二週間前,この人が日本海までいって釣ってきたというグレの焼きものである.この人はもともと富山の人.車で日本海まで釣りに行き,いいものが釣れると店に出す.私とほぼ同じ年なのに車で日本海まで,元気である.グレの塩焼きに少し酢の入ったダシをかけていただく.これと京都の地酒を冷やで飲む.酒と肴は風土と切り離せない.若狭のグレは昔から若狭街道を通って京都に来ていたのではないか.
 先週は,アユの塩焼き.こちらで釣れたのを仕入れたといっておられた.アユは故郷の宇治川のものが好きだった.アユは「釣る」といわない.宇治では「アユかけ」と言っていた.おとりをつけて川にいれ,引っかけてとらえるのだ.播州揖保川のアユをもらったこともある.揖保川のアユのはらわたで作ったこのわたが今も冷蔵庫にある.この塩辛も好物で,耳かき一杯で1合の酒が飲めるというものである.
  そして先日はハモの湯引き.京都の夏はこのハモの湯引きである.これを梅を練ったものにつけて食べる.酒は独りで飲むべきもの.この店で黙って一献,である.来年は京都に行くかどうかわからないので,写真に撮っておいて,それを見ながら一杯やるために,撮している.

 若狭の魚といい,琵琶湖の鮒寿司といい,宇治川のアユといい,高浜や大飯や美浜の原発が崩壊すれば,みな食べられなくなる.福島ではそれが現実化した.いつもそのことを思う.そこから,今の世のあり方を思う.もう手遅れかも知れない様相である.ゆくところまで行かざるを得ないのか.そうしないとこの近代日本は変われないのか.そんなことも考え,店を後にする.

 

はや六月

 今日は定例の梅田解放区の日である.この場所は公共の場所で,何人かで歌っているいる若者達もいれば,梅田解放区のように皆で集まって思いを語りドラムをたたくという人もいる.言いたいことのある人はここに来て喋ろうと呼びかけている.私は,若い人らががんばってるので,ここでは喋らずもっぱら横断幕をもつのを手伝っている.
 いよいよアベ政治の中味が多くの人の知るところとなってきた.アベ政治は農業・牛肉でトランプと合意したが,それは日本の農業を産業として成りたたなくするものであるがゆえに,その発表は夏の参議院選挙後に行う.これをトランプは得意げに喋った.日本の農業を潰し,アメリカ資本の企業農業にすべて捧げる内容が,すでに合意されている.
 これまでアベノミクスがうまくいっているかのように偽造するため,国民の金融資産を株式市場などに投げ込んできた.つまりは国際金融資本に年金基金を捧げてきた.そのことも明らかになった.数年のうちに日本の年金の破綻が現実化する.
 今日一緒に語っていた若者らの賃金は少なく生活は苦しい.さらに,この世代の多くのものの老後は悲惨である.年金がかけられないという人も多い.近代日本が,衰退国家,失敗国家となり果ててゆくことが避けられない.これは,もう明らかである.これらのことは,『分水嶺にある近代日本』にも書いていたが,それがこのように早く現実になるとは,実際思いもよらなかった.
 しかし,報道はされす,分析もなされず,テレビも新聞も,現実を見ないように,見せないように機能している.しかし報道機関の姿勢はフランスも同じである.ではなぜ日本で人々は怒らないのか.この政治を変えるために立ちあがらないのか.日本の方がフランスよりずっとひどい状況なのに,とにかくもフランス人は立ち上がり,日本人は黙って耐える.そこに竹内好が「一木一草に天皇制がある」という天皇制があると言うのはそのとおりである.この間の代替わりの喧噪を見れば,人々を自分で考えないようにしむけ,そしてそのうえで国民を統合するために,この制度はたしかに機能している.
 その事実をふまえて,しかし,多数の意識をどこでどうして動かしてゆくのか.そのことを考えざるを得ない.目の前を通り過ぎる若者は,自分たちの将来をどのように考えているのか.

 ここに書くことで考えたいことも多くあるのだが,明日朝は自治会で市から委託された地元の公園の掃除.七時半までに倉庫の鍵を開け箒などを並べるので,今夜はここまで.

暑い五月

 今年の五月は暑い.天気はいいのだが,関西は五月晴れのさわやかさがない.

 昨日は定例の梅田解放区の日.若い人らががんばってるので横断幕をもつのを手伝ってきた.前に紹介したTさんも,メールをもらっていたが,梅田の西側のヨドバシ前での行動を終えて、東側のこちらに来られていた.他の人がとった当日の写真がここにある.
 維新の会の関係者の暴言が止まらない.発言した当時は日本維新の会に属しその後除名された丸山穂高衆議院議員は,北方四島ビザなし交流の訪問団の一員として国後島を訪問した五月十一日の夜,報道機関の訪問団員への取材に酒に酔って割って入り「戦争しないとどうしようもなくないですか?」などと発言した.その後,週刊誌ではさらにいろいろ書かれている.そして,とうとう衆議院議院運営委員会が24日,理事会に出席して事情を説明するよう求めたところ,丸山は「適応障害」の診断書で欠席した.
 また維新の会が次の参院選で公認する予定の長谷川豊氏は、今年二月の講演会で「日本には江戸時代にあまりよくない歴史がありました。士農工商の下に、穢多・非人、人間以下の存在がいると。でも、人間以下と設定された人たちも、性欲などがあります。当然、乱暴なども働きます」「プロなんだから、犯罪の」などと発言していたことが最近わかった.最初は居直っていたが,部落解放同盟中央本部が抗議し,それから謝罪した.

 かつてドイツでナチスが権力を握ったのは、ドイツの中間層が,第一次大戦で失ったものを戦争をしてでも取りかえそうとする意識をもち、さらにそこにユダヤ人への差別意識が結びついたからだ.ナチスはそれを巧みにもちいて扇動し,議会を牛耳り非常事態法から独裁へと進んだ.
 今回の二人の発言は,かつてのナチスを連想させる.大阪においては,これらの発言を生み出した大阪維新の会が第一の政治勢力である.そして,アベ政治そのものもまたこの二つの発言の思想を行動に移してきた.

 このまま行けば,歴史は二度くりかえすの言葉どおりになる.ナチスドイツとアベ政治.一度目は悲劇として,二度目は歴史の笑いものとして.そう考えるなら,いままさに日本は大きな分岐点にあると言わざるをえない.一月に「分水嶺にある近代日本」に書いたことが,半年も経たないうちにこういう形で具体化してゆくとは思いもよらなかった.この先,衆参同日選挙ともなれば議会はこのようなナチスのたぐいの勢力が圧倒的多数となる.そしてその先にあるのは二度目のヒトラーである.そしてそれに続いての大きな破局,再びの八月十五日である.この日本はそこまでゆかねば変わらないのかとも思う.しかしそれでは犠牲が大きすぎる.かつてのドイツを教訓にして,同じことをくりかえさぬ道はないのかと思う.

 23日の木曜日は,大阪は茨木市にある人民新聞の編集室で,杉村さんと拙著『神道新論』をもとに対談した.これを編集長が録音し記録して,いずれ人民新聞の記事になる.自分ではこう書いているつもりが人はこう読んでいるというようなこともいくつかあり,対話していろいろ展開せねばならないところも見えてきた.根のある変革ということが基本的な問題意識である.これは伝わり共有されただろう.こういう対話がこちらの求めることであったので,ようやくの,一歩の前進であった.
 この数日,仕事の合間に少しずつ考えが育っている.どのような形にまとめられるのかはまだまったく見えないが,青空学園のなかで書きためはじめなければならない.この時代にこちらができることはしておきたい.

5月31日追伸:自分の記録のために書いておく。

 もう五月も終わりである.五月の後半は多くの人に会った.

 16日は,教師になって最初に担任したときの教え子に40年以上経て再会した.
 17日は,1966年入学の京大理学部のフランス語のクラス1組のクラス会.
 23日は,フランス現代思想の杉村さんと拙著について人民新聞の編集室で対談.編集長がいずれ記事にしてくれるだろう.杉村さんには,拙著をもっと展開するべきとの激励を受けた.
 28日は,高校とS1の同級で17日は欠席した由良さんと会った.彼が京都府委員長を務める党派の,京都・吉祥院にある事務所で会った.三年ぶりというところか.
 30日は,同業のM師ら数人と梅田で会食.私と二人で,ある予備校の模試も作っているので,仕事の話が半分.あとは飲み会であった.ビール,泡盛,日本酒と三軒はしごした.

 いずれも,私の人生にとって大きなそして深い意味をもつ人らばかりであった.本当にいろいろ考えさせられる.